適刊・近衛虚作

喀血劇場主宰・近衛虚作(このえ・うろつく)がつれづれに侍るままに、由無し事ども書きつくるなり

今年も岩手県西和賀でお芝居作ります

夏の西和賀町に訪れるのは、今年で三度目になる。そしてそのたびごとに、町の新しい姿を発見してきた。最初の滞在で、西和賀町は僕にとって涼しくてのどかな町でしかなかった。二度目は深刻な過疎と高齢化を抱える町の姿に気付いた。今年の夏は何を見つけるだろう。

 

東日本大震災で甚大な被害を受けた釜石や大船渡といった岩手県沿岸部。そこから内陸にずずいっと進むと、秋田県との県境に西和賀町がある。町を最初に訪れたのは2012年の夏。ささいなことから知り合った実行委員に熱いプレゼンを受けてのことだった。そのとき僕は京都に住んでいたが、西和賀町に乗り込む直前には東京で公演を行っていた。うだるような京都の蒸し暑さ、東京の都会特有の熱気、そこから鈍行でのんびり14時間かけて(途中で大雨で電車が止まった)乗り込んだ西和賀町は驚くほど涼しく、あとから聞くには実は異例の涼しさだったらしいが、これがこの世の極楽かととろけきった顔で一週間を過ごすことになる。

この年は初対面の四人と班を組んで芝居を作ることになった。僕が脚本と演出を担当することになったが、完全に手ぶらで何の準備もせずに町に乗り込んだので、取材と称して駅で乗り降りする町の人を眺めたり、町をぶらつきながら木々の匂いと虫の声を浴びたりした。結局、僕が西和賀町に到達する直前の北上という街で実際に遭遇した花火大会を題材に、20分の小品を作った。とてもかわいらしい作品になった。

 

二年目の夏、今度は全国から集まってくる学生たちが一丸となって一つの作品を作り上げることになった。脚本と演出は僕だ。六月から八月の本番が終わるまでの二ヶ月、僕は町の人に居候させてもらいながら、取材を行った。そして一年目には見えなかったいろいろなものが見えてきた。西和賀町は乳児の年間死亡ゼロの達成など医療で知られた沢内村と、温泉の湧き出る観光地である湯田町が合併して生まれた町だ。合併から10年たった今も、もともとの自治体ごとの気風の違いはいまだに残っている。そして過疎と高齢化の問題だ。日本は2040年に自治体の半分で人口が半減するらしい。そんな遠い未来のことはうまく想像することができない。しかし、それよりももっと早くに、町が機能しなくなるほどに人がいなくなる西和賀町の姿が想像でもましてや妄想でもなく、僕にははっきりと見えた。

都会住まいの人間の目線から見れば、西和賀は確かに退屈だが、毎年夏に訪れてもいいほどに、この町の空気、のどかさは心地のいいものだ。しかしそれは外からやってくるお客さんだけが享受できるものであって、町の人間にとってみれば、それは真っ暗な夜がやってくる直前、黄昏の美しさでしかない。そう思った。実際には町の人々の間でも危機感には大きな差があって、問題はより複雑で困難さを増している。このプレイ・タウンという取り組みも、ただの合宿事業ではなく、町をアピールするためのものでもある。

脚本は難産だった。一年目に書いたような、かわいらしい話ではいけないと思ったからだ。このままではきっと滅びるこの町が、それでも町を外に対して開こうとしているその姿勢を、どうにか脚本に生かそうとした。締め切りを何度か延長して完成した脚本は『鬼剣舞甲子園二〇二八』。15年後の、まるで西和賀のような町の話だ。西和賀町の伝統芸能、鬼剣舞が滅びようとする中で、西和賀とそっくりな町の高校生が不純な動機から「鬼剣舞甲子園」での入賞を目指す。概要だけかいつまむと、間抜けなタイトルと使い古された設定だと思うだろう。実際僕もそう思う。しかし、この作品は、その上演を見ていた、鬼剣舞の数少ない担い手である青年の心をえぐった。彼は「絶対に鬼剣舞を滅びさせない」と言った。

 

そんなこんなで三年目である。今年のプレイ・タウンの演目は『鬼剣舞甲子園二〇二八』。つまり去年の再演だ。ただし再演とはいえ、全国から西和賀を目指してやってくる学生たちの顔ぶれは違うものだし、脚本だって演出だって手を入れる。しかも今年は、これまでの滞在を倍にして、二週間もの期間を西和賀で過ごすことになるし、お盆に行われる成人式ではその途中経過の上演も行う。仙台に出かけていって、交流イベントまでやったりする。できあがるものは、幕が上がるまでわからない。ただ言えるのは、この二週間で何も感じない不感症体質であるならば、ここから先、どこへ行っても、何をやっても、あなたの心は震えないだろうということだ。

 

つらつらと書き綴ってきたが、実のところ僕はまったくもって気さくな人間で、お芝居大好きな少年のような心を持っている。だから今年の夏を、また西和賀で、全国からやってきた奇特な人たちと町の人間と過ごすのがたまらなく楽しみなのだ。要は西和賀町で二週間ともに過ごして、一度きりの逢瀬だろうと、それを目一杯楽しみませんかと、そういうお誘いなのである。