適刊・近衛虚作

喀血劇場主宰・近衛虚作(このえ・うろつく)がつれづれに侍るままに、由無し事ども書きつくるなり

劇団野の上『臭う女(黒)〜におうひと ノワール〜』感想

劇団野の上『臭う女(黒)〜におうひと ノワール〜』、22日夜の回を見た。

劇団野の上は京都で見た京都で『臭う女』以来、3年ぶり2回目。
僕はその最初の『臭う女』を見て、人生しょうがないことはあるよなーっていう中に、でも明日はいい日かもね、みたいな、そういう感じを受け取って、ほんまええ話やなあと思って、そのときの自分の身の上のこととかを考えて途中で号泣してしまったのであった。(観劇とはことごとく個人的な体験である。)

で、今回見て、僕は泣きはしなかった。
前半は前回同様、しょうがないことってあるよなーっていう感じで、登場人物も愛くるしさ全開だったんだけど、後半のやるせない怒りを各々が、ぶつける対象を絶対に間違ってるんだけど、ぶつけ合うあたりは、怒りの矛先は自分にも向けられているんだろうなと思うと、やはり「うぐぐ」となったりした。

要は畑作業をしていた人たちが「資本主義」の「日本」の「青森」で、「農業」をしてて、「家族」は古き良き日本の家庭像からはずれたものであって、その中でごちゃごちゃしてぐちゃぐちゃして、流されるままに生きていたら破綻したという話だと思うんだけど、そんないろんなことに対して、「怒ってもしょうがないことなんだけど怒ってるぞ」というような、そういうのを僕は受け取った。もちろん同時に登場人物はみんな自分にも怒ってると思うけど。
金を稼がなきゃいけなくて、その原因は自分にあったり、自分以外にあったりするけど、何でこんな思いして金を稼がにゃならんのだ、しかも中間搾取されてるぞみたいな。代々農家やってて、自分も農家やってるだけなのに、何でこんな目に遭うんだみたいな。そらあんたが、薄々未来は見えていたろうに、それを回避する決断をしなかったからよ。だけど、そんなこと、なかなかできねえよなみたいな。

すごく深読みすれば、青森の芝居人が青森の言葉で芝居をすることは何もおかしなことではないんだけど、それを東京でやるということに対してもやるせない気持ちもあるのかなとも思った。方言で上演される芝居ってエネルギッシュだとか、臨場感があったとか、受け取りやすい言葉で言えばそうなんだけど、一方で、その方言の話者でなかったり、もしくは日本の中心たる東京(そこの名古屋人、文句を言うな)人にとっては、どこかで奇異なものであったり、後進的な土着文化に映っていたりっていうのはやっぱり一定はあるんではないかと思う。そのときに、津軽弁であったり、南部の言葉であったりで芝居をするっていうのは、武器になると同時に、見世物でもあるよな、と今回、考えたのだった。というか、やってる側が考えてなくても、特に地方から出てきて東京に住んでる人間はそういうこと考える人はいるだろうなと。まあ僕が現住所が東京にある、京都経由の鹿児島人だから勝手にそう思ってるだけかもしれんけど。

まあいろいろコチャコチャ書いたけど、やっぱり面白かった。間抜けだなあと思いながら。
あの舞台装置で切った張ったをやるのとか、なぜダンスとか。いいねえ、とニヤニヤした。
だけど、銃がしょぼかった。
圧倒的な暴力の象徴の銃が、なぜか通用しないっていうギャグなのかと思って、だったらまあそんな感じかなと思っていたら、さらにどんでん返しでみんな死ぬんかいって混乱した。
このままじゃみんな死ぬぜ、なのか、殺してやるぜ、なのか。
まあどっちでもいいかなと思うけど。

面白かったけど、スカッとはしなかったな。
まあスカッとしたくて芝居見てるわけじゃないからいいんだけど。
なんか、この、こう、モヤモヤする。