適刊・近衛虚作

喀血劇場主宰・近衛虚作(このえ・うろつく)がつれづれに侍るままに、由無し事ども書きつくるなり

京都学生演劇祭2013の閉会式とか打ち上げとかの感想

いやー、まさかのまさかで、2年連続で観客投票1位を逃してしまいました。

 

自分のとこの感想や裏話を置いといて、とりあえず京都学生演劇祭の話をしようかな、と。

数年後に見返して、顔真っ赤にして穴掘って埋まりたくなるぐらいのことしか書かんけど。

 

まず僕は、芝居を作る側と客と分けたうえでさらに、「実際に板の上に立つ役者、脚本家、演出家、照明、音響、舞台を始めとするスタッフ」と、「制作や劇場、大会の運営側」とは絶対に線引をしなきゃいけないと思っていて、だからその点では、演劇祭の実行委員会が、演劇とは違う文脈から参加している人が多い状況というのは、お互いに絶対に分かり得ないんだから、最初から演劇畑の人が運営に回るよりかは幾分建設的だし、健康な関係を築けるのではないかな、と思っています。

 

そして、自分は実際の舞台を作りあげる立場であるという自覚、というかこだわりに基づいていえば、実行委員の人の一部だけど、どういう動機で演劇祭の一員になったとかいう話を聞いてなおさら強く思うようになったことがある。芝居をしてないと心身に変調をきたす人が(たとえ一部であっても)いる中で、全く違った性分の人たちがいるのは、それは不幸な出会い頭の衝突であれ、なんの因果か面白い関係をその後も続けていけるようになるとしても、演劇ばっかやってるやつらが、そうじゃない人と否応なしに話さなあかん場、やりとりをせなあかん場がある、というのは、やっぱり非常に貴重な場面だ。だって、「いやあ、演劇なんてやってて、フフフ、僕、ダサいっすよね」っていうやつも、「演劇こそ至高!演劇やってない奴は糞!」っていうやつも、言い方は悪いかもしれないが、「一般人」と同じ空気を吸いながらイベントを作る機会なんて、そうそうないから。演劇を絶対視している糞野郎でも、思い出作りでやってる糞野郎も、ほんと、そんな機会ないから。自分がやってる演劇っていうのが、いかに他者に対して無力かっていうのがよくわかる機会ですわ。

 

次に、あまりにも内向的だということ。

今日の打ち上げで、今まで話をしたことがなかった人間と話をした人間が、どれだけいるのだろうと考えたときに、そういうやつは少数派なんだろうな、という。

打ち上げの場は、間違えなく「学生ノリ」で、僕も無責任に煽ったりして、ワイワイガヤガヤやれたら、それはそれで楽しいし、楽しいからには意義がある時間だというのは否定しようがない。

だけども、ですよ。

「アンケート」を求めるからには、自分以外の人と話をせにゃならんわけですよ。

芝居を作る側とアンケートっていうのは、絶対に殺し合いにならない安全圏同士で完結してるわけで。それ以上のやり取りを求めないなら、僕は初めからアンケートなんざいらんわいって思う。

参加者同士であれ、参加者と審査員、参加者と実行委員、実行委員と審査員、「あれ、なんでこんな人と話してるんだろう」ってぐらいの人と話さない限り、「いっぱい騒げて楽しかったですー」で終わるんだろうな。

 

京都について。

僕は鹿児島と京都にしか住んだことがないから、京都が特殊な街なんかどうかなんて知らない。僕が京都学生演劇祭に出たのは、自分が学生をやってるとこでやってる演劇祭だったっていう以上の理由なんて一つもない。「京都の小劇場界を盛り上げよう」だの「京都の学生演劇を盛り上げよう」だの「京都という土地でしかできないことがある」だなんて、心の底から、全く思わない。京都の学生なんて、相当な数が、よそから来て、よそに去っていくだけの存在やん。

京都学生演劇祭が今後も続いていくとして、毎年毎年、面白い団体・個人が出てくるはずがない。もしも毎年、そういう素晴らしい人材が出てくることを期待するなら、それは京都で演劇祭をやるのは明らかに間違えている。確率からいえば、せめて人口が5倍以上の東京でやるべき。東京なんて糞の塊でしかないと思うけど。

じゃあなぜ、京都で演劇祭をやるの?っていう話。

こと学生に話を絞るのなら、たまたま京都に住んで、たまたま同時期に、たまたま演劇という共通項でくくれる人がおるんだから、じゃあせっかくだし、集まってなんかやってみますかっていう、それだけなんじゃないの?

もしもそれ以上の意味を持たせたいなら、それは一部の悪い大人と、小賢しい学生が、なんらかの企みを持ってやるしかない。だけど沢大洋はアホやから、期待はできないけど。

 

閉会式について。

参加者がみんな舞台を通りすぎていくことに何の意味があるのか。

閉会式に客を入れてやることに何の意味があるのか。

ピンスポに何の意味があるのか。

かかってる音楽に何の意味があるのか。

進行役の作道・石井両氏に何の意味があるのか。

審査員と各劇団の代表が、対面でなく、平行に並んでいることに何の意味があるのか。

あまりにも全部に意味がなさすぎる。

「今、最もおもしろい舞台を作る劇団はどこか」そのシンプルな問い に答えを出す、お芝居の祭典、という大上段のお題目を掲げているくせに覚悟も企みも感じられないのはどういうことだ。

デーハーでミーハーなことをやる前に、消化しないといけないことにどれだけ背を向けているか。

そこでギャーギャー騒いでる自分を含めて、虚しい空間だった。

 

学生という範疇で考えたときに、僕はその場にいてもいいけど、いるのはおかしい異物だという自覚はさすがにありまして、去年に引き続き、大学の学籍を持っているっていうだけで、学生演劇祭に参加することができて、いやあ甘い汁をいっぱい吸えてよかった。

 

今後の京都学生演劇祭に期待するのは、本気の殺し合いです。