適刊・近衛虚作

喀血劇場主宰・近衛虚作(このえ・うろつく)がつれづれに侍るままに、由無し事ども書きつくるなり

立命芸術劇場『うぶわらひの映る』感想

お世話になったり、これからもお世話してもらう予定(勝手に)の人が出てた立命芸術劇場の卒団公演。

20日昼の回。

徹夜での観劇なので個人的なコンディションとしてはよくない。

ホールに入ったらまず舞台装置が目に入る。京都の学生劇団で具象と言えばやっぱり劇団ケッペキと立命芸術劇場なんでしょうね。

たまたま一緒になった北川啓太 from 劇団愉快犯とパンフレット見ながら「3年生で引退って考えたらすげえな」と話す。俺もう3回引退してる計算になるよ。

住野さんめっちゃ面白かった。

黄瀬が役者で出てるの見たかったな。

はまちゃんは目はめちゃくちゃダルそうで、体の芯からダルかったらやばかったかも。

ゲス森さんははまり役でしたな。

長坂さんが突如喋り出したとこのインパクトを越える、じりじりとした存在感をその後の演技で出せていたらすごいよかっただろうな。

75%ぐらいの進行度の時に、ちょっとつらかった。繰り返すがコンディションよくなかったし。

スクリーントーンをあまり使わない系の女の人が書く漫画っぽい。吉田秋生の「海街diary」を思い出したが、あまりそれ系読まないので適当ではない気がする。

妊娠・出産が明かされた時、ひっじょうに学生演劇っぽいと思った。陳腐って意味だけど、そこまで悪い意味では無い。ただ、あまりの唐突具合を演技でうまく吸収できていたかというと厳しい。

たとえば時計を見る時、たとえばディスプレイを見る時、その役者の目に何が写っているのか。物体としての時計、ディスプレイが目に入るだけでは不十分で、そこから何か読みとって、初めて「見る」ことになる。

具象舞台を使いきっていない。人ってもっといろんな物に触るでもなく触ったりしてるし、見ている。

具象舞台(に限らずだけど)での演技、一番身近な勉強法って、人と話してる時に、話してるふうを装って、自分を含めて観察することだと思う。会話って考えれば考えるほど意味分かんなくなるけど、普段はリラックスした状態でそういう奇跡の連続起こしてるんだからすごいすよね。

海ガラスは兄ちゃんだったんだろか。散々削られてしまったガラス。撒き散らされた海ガラスを拾い集めて話している女2人。最後にテーブルに残された海ガラス。僕だったらラストの暗転、環境音と海ガラスだけ10秒残すかもな。お客さんがラストの暗転前に芝居を思い返す時間、作れたら素敵だ。

なんとなく、「丁寧な演技」について考える。

会話のキャッチボール。普通に立つこと。表情。

いきなりやらせてできる人とそうじゃない人。

高校演劇時代、「感情のひだ」という言葉を聞いた。

感情は滅多に直線では動かない。いつもぐにぐにしていて、常に不定形。不定形だけど確かに形はある。いろんな刺激の連続の結果、怒ったり、笑ったり。

当然舞台でやるんだから日常そのままではないけど、それを素直に増幅する感じ。

(ちなみにいびつに増幅させるのが合田団地とか丸山交通公園の持ち味よね。オーバードライブというか、ディストーションというか。いびつでも使い所によっちゃバッチリかっこいい)

なんか、わし、頭でっかちだなあ。

観てて一番の感想は、「続けたらいいことあるよ」ってことなんだけどね。

おつかれさまでした。