適刊・近衛虚作

喀血劇場主宰・近衛虚作(このえ・うろつく)がつれづれに侍るままに、由無し事ども書きつくるなり

7月6、7、8と芝居に出るのじゃ

おまえ、ブログ更新、約3年ぶりって、やる気あんのかよ、すいません。
つうことで、来週末、本番です。

【あらすじとみどころ】

夏。学生寮で見つけた“過去に行ける扉” を使った中退トリオの前にタイムスリップあるある的なトラブルが 続発。

「この状況、 バックトゥザフューチャーPART2より難しくない……?」
「ごめん観てない」

トリオは無事に閉店前のレコレコに飲みに行けるのか。

時の流れには逆らえないアラサー同級生3人がお送りする抱腹絶倒 のスラップスティックタイムスリップコメディ。

 

はい。
5年ぶりに1時間超えの芝居に役者として出演します。
人の演出を受けるのなんて、もう7年ぶりくらいです。

3人で70分くらいのストロングスタイルのストレートプレイのコメディです。
おいらも1/3くらいしゃべります。

演目:「花の中退トリオ、タイムスリップする、夏」
作・演出:延命聡子
出演:伊藤泰三 近衛虚作 酒井信古
日時:2018年7月6日(金) 19:00
7月7日(土)14:00/19:00
7月8日(日)14:00/19:00
(開場は開演の30分前)
会場:京都大学吉田寮食堂

料金:一般前売900円 一般当日1000円 高校生以下500円

予約は以下のフォームから。LINEだったら直接言ってもらっても大丈夫です。

公式サイト: http://cul-de-sac.mods.jp/mamekikaku/index.html

予約フォーム: https://ssl.form-mailer.jp/fms/d23dae74573028

「おまえ、役者なんてやってたの?」って人もいるかと思いますが、もともとは役者です。

今回、久方ぶりに「役者だけ」の状態で舞台に上がることになって、本当に大変だなと思ったのは、セリフを覚えることです。小学生かよ。一昨年、去年と短編でちょろっと出演することもあったけど、セリフ覚えるって奇跡ですね。

久しぶりの役者の感想がそれかよ。程度が低いなあ、俺。

京都学生演劇祭の思い出やら

 飄々舎という団体に「寄稿したらどうなんだ」と言われたので、寄稿しました

京都学生演劇祭 同窓会報 号外Vol.1 (100円)|飄々舎|note

 おんなじ内容の文章にいくら金を出すかは各個人が選べます。

 自分の文章は1時間ちょっとぐらいでパパッと書いたし、別に出し惜しみするようなものでもないので、こちらにも同じ内容を貼っときます。

 本当は三章立ての小説を書くつもりだったんだけど、岩手と京都を往復するから無理だった。

 ----

 喀血劇場は第二回(2012年)、第三回(2013年)の演劇祭に参加しました。

 第二回では学部9回生(当時)の唐仁原俊博が脚本・演出を務め、観客投票において、西一風に次ぐ、二位という成績を収めることができました。

 第三回では学部10回生(当時)の近衛虚作が脚本・演出を担当。(元主宰の唐仁原はいつの間にやら消滅しました。)学部10回生が二人も舞台に上がったし、舞台経験がほぼ皆無の人も含め、5回生以上の役者が複数出ていたり、最年少は高校二年生だったりと、「学生であること」というレギュレーションを逆手に取り、好き放題にやりまくりました。どうやら好き嫌いが激しく分かれる作品に仕上がっていたようで、お客さんの評価もバラバラで、審査員の皆さんには概ね好評でしたけれども、観客投票の上位争いに絡むことはできませんでした。

 

 さて、演劇のみならず、芸術というものは内発的なものであるといわれます。とはいえ、自分を取り巻く外の環境は当然ながらそれに影響を与えます。

 たとえば、第二回において唐仁原は、学生演劇祭の主な客層である学生をメインターゲットに作品をつくりました。学生演劇をやっている人や、やっていた人、いまも続けている人に向けて、「こういうことがあるから、やってらんねーときもあるけど、それでもやりたくなることもあるから、素敵じゃんね」という話です。

 唐仁原の弁によれば、学生演劇祭に参加しなければ、あの作品が書かれることもなかっただろうということでした。つまりは、場が設定されることで、自分の中にあった思い・考えというものが、かたちになって表れたということです。

 

 第三回において、私も似たような経験をしました。種々の事情により脚本が完成せず、実行委員をはじめ、多くの人に迷惑をかけてしまいましたが、それでも上演にこぎつけたのは、これ以上各方面に迷惑はかけられないから、絶対にやらねばと思うことができたからです。

 もし自主公演であれば、公演中止もあり得たほどにギリギリに作品が仕上がりました。いまだから言いますが、稽古期間は3週間ほど。稽古開始時には脚本も完成していませんでした。もともと、前年の夏ぐらいから少しずつ書いていた脚本でしたが、20人近くいた登場人物を削り、新たな結末を探しました。本当に上演できるかわからない状態でも、私の呼びかけで集まってくれた人たちがいたおかげで、登場人物に命が吹き込まれ、この登場人物たちであれば、45分の物語の結末はこれ以外ないというところまで書き上げることができました。いま読み返してみても、それまでの自分の経験がきっちりと反映された脚本になっています。唐仁原のケースと同じで、やはり自分の頭の中で渦巻いていたいろいろな思い・考えが、「学生演劇祭でやる」という外圧により押し出されたわけです。

 そして、来てくれる人は学生演劇に多少なりとも興味のある人であるのだから、その人たちに、できる限りのムチャを見せてやろうという考えもありました。ちんこをモチーフにしたゆるキャラとか、寝取られエンドはあまり学生演劇では見られないものです。そういうものを積極的に採用したのは、やはり客層を意識していたからです。

 自分の外の環境も考慮に入れながら、かたちにするものを取捨選択はしましたが、できあがったものは、私にとっては普遍的な、世の中にありふれているものを余すところなく表現したものに仕上がったのです。

 

 学生演劇祭というのは、普段の各団体の公演とは、環境もお客さんも違っているはずです。ただ、そういった場で初めて湧いてくるものもあるということを私は言いたいのです。

 第一回京都学生演劇祭が開催されるということを知ったときに、私は正直、「どうせしょうもないのしか出てこねえんじゃねえの」と思っていました。しかし、学生演劇祭があるからこそ生まれる作品があるということを、自分の経験で身をもって知ることになりましたし、唐仁原や私が敗北を重ね、多くの人が「おまえのより、こっちのほうが面白いし」と感じたという事実は、自分が取り上げたいことは変えずとも、もっといろいろな表現の仕方があるはずだと考える機会にもなりました。

 というわけで、いまのところ私は、京都学生演劇祭について、肯定的な立場です。

 

 ただ、危惧していることもあります。

 学生演劇祭が悪いやつの食い物にされることです。いまのところ、規模的にその心配は杞憂だとは思いますが、どこかの企業とべったりになったり、誰かの金儲けのために利用されるようになったり、あるいは、「とにかく派手ででかいイベントをやりたい」というような人で実行委員が占められてしまったり、といった事態を想定しています。もしそうなってしまえば、それは学生演劇の祭りではなくなってしまいます。

 そんな事態を避けるためには、事務局をやっている沢だけでなく、ドラフト会議みたいにバカな企画を実行する高間響とか、私も含めた学生演劇上がりの人々が、目を光らせておく必要があるだろうなと思っています。

 

 ああ、そう。今回の「架空予約疑惑」ですが、これが本当に悪意ある何者かの仕業であるなら、絶対に許すつもりはありません。ただ、「それでも頑張ってる学生は偉い」的なノリになってくると、それはちょっと違うんではないかなと思うのです。

 甲子園で行われる高校球児の野球に、勝手にいろいろなものを上乗せして楽しむのは、私は嫌いです。今回も「オコエがサバンナで野生でなんちゃら」みたいな記者が叩かれたりしましたが、そんなクソくだらないものを持ち込まれては、私がやってる側であれば、たまったものではありません。そういう変なストーリーを付与することは、悪いやつを呼びこむことにもつながっていきます。

 京都学生演劇祭は、あくまでも心から演劇をやりたいと思う人のための祭りであってほしい。いろいろと汚い手を使ってでも、一番面白い団体として評価されたかった私にとって、これは結構切実な思いです。各団体の個別の公演とは環境が違うけれども、作品自体が正当な評価をされるような環境が今後も続いてくれればいいな。

 

追伸

 結構いい文章が書けたと思うので、10月10日から12日まで、吉田寮食堂で行われる喀血劇場第九幕『うつくしい日々』にぜひともご来場ください。京都学生演劇祭2015の半券があれば、100円引きで観劇できます。詳細は当日パンフレットに挟み込まれている喀血劇場のチラシをご覧ください。

----

以上。

1980年以降の吉田寮食堂とその存在意義

大学を卒業してない私ですが、卒論は出したんすよ。
口頭試問で担当教授に
「これ、面白いけど、論文じゃなくてエッセーだよね」
と言われながらもはんこをもらったちょっと恥ずかしい文章ですが、
吉田寮が廃寮化された場合に、
京都の小劇場界隈が受けるダメージは計り知れないと思うのでまんま掲載します。
2013年1月に書いたものです。

 

『1980年以降の吉田寮食堂とその存在意義』
《研究目的》

 京都大学の学寮である吉田寮には食堂が併設されている。1980年代、大学当局が吉田寮を廃寮化しようとする動きの中で、この吉田寮食堂は機能と役割を大きく変えることとなる。それまでの、寮生に食事を提供する本来の意味としての「食堂」から、ときに「吉田寮食堂ホール」と呼ばれるような、寮の外部に開かれた、自主的な活動・創作の場として生まれ変わったのである。

 吉田寮食堂がターニングポイントを迎えて30年近く経った現在であるが、吉田寮自治会、食堂を活動の場とする人々(以降、食堂使用者とする)にとって、吉田寮食堂がどのような場であったか、またはあるのかということについての研究は行われていないと思われる。

 本論文の目的は、吉田寮食堂がターニングポイントを迎えた1987年からの、過去30年ほどの歴史を振り返り、寮自治会、食堂使用者それぞれが吉田寮食堂をどのように捉え、どのような存在意義を見出してきたのか、そして吉田寮食堂がその両者にとってどういった影響を与えたのかを明らかにすることにある。

 

《テーマの選定理由》

 最も大きな理由は筆者自身が吉田寮の寮生として10年間過ごし、また演劇活動に打ち込み、吉田寮食堂での公演も幾度と無く経験しているためである。長い大学生活の締めくくりとして、自身が最も親しんだものを題材とするのが当然であるという考えである。また、吉田寮には膨大な資料が保存されているが、それを紐解く寮生はごく一部に限られており、眠っている資料を再構成し、さらに考察を加えることで、吉田寮の歴史に興味を持つ者を増やすことができれば、吉田寮吉田寮自治会、関わってきた人々に対してささやかではあるが恩を返せるのではないかと思ってのことである。

 

 

1 そもそも吉田寮食堂とは何か

 吉田寮食堂は吉田寮の一部であり、吉田寮自治会が管理・運営を行なっている。

 

1.1 吉田寮の構造

 吉田寮1913年、京都大学学生寮として開設された。2001年に東京大学駒場寮が立ち退きの強制執行を受け閉寮となったため、現在は日本最古の学生寮となっている。構造としては、管理棟、北寮、中寮、南寮、および食堂に大きく分けられるが、全ての棟は接続されている。管理棟と食堂は平屋、ほかは2階建てであり、全て木造建築である。管理棟には、受付や事務室、寮内会議や催しに使用される大部屋や資料室といった共用スペースがある。北・中・南寮は寮生らそれぞれの居室となっている。そもそも、現在「吉田寮」と呼ばれている寮は「吉田東寮」であった。かつて京都大学薬学部構内に「吉田西寮」が存在したのだが、1989年に取り壊されている。

 

1.2 吉田寮自治会

 吉田寮は寮生全員から構成される吉田寮自治会によって管理・運営されている。

 自治会内には様々な役職・機構が存在するが、ここでは本論文に関係するものについてのみ述べる。

 執行委員会は自治会における窓口機関である。

 自治に関する様々な議題は総会と呼ばれる、寮生全員が参加できる会議において決められている。

 寮生は各々が文化部・厚生部・庶務部のいずれかに所属し、寮の管理・運営に関わる仕事を分担している。かつて吉田寮食堂が本来の食堂として機能していた際には、炊事部が存在していたが、後に解散している。また、食堂が自主的な活動・創造の場となって以降、1992年に、文化部内に食堂局が創設された。

 

1.3 吉田寮食堂

 前述の通り、吉田寮食堂は、吉田寮の一部である。一般に寮食堂は、寮生に安価でバランスの取れた食事を提供するという役割を担っており、それは吉田寮食堂においても例外ではなかった。1しかし、現在、吉田寮食堂は、基本的には食事を提供するという機能を失っている。炊事のための器具はあるにもかかわらず、実際に食事を作る炊フが存在しないためである。2食堂と冠してはいるものの、食堂本来の機能を果たしていないわけであるが、このような状態になったのは1980年代の学内情勢が直接の原因である。

 

2 1980年代の京都大学吉田寮

 京都大学においては、学寮の運営は早くから寮生の自治に委ねられており、吉田寮にあっては1968年度より寮自治会による自主入寮選考が行われるようになった。折しも全国的に学生運動が盛り上がり、そしてピークを過ぎた時期であるが、1971年には、吉田寮自治会・熊野寮自治会が学生部長と団体交渉を行い、自治会が入寮選考を行うことを大学当局に認めさせ、確約書を得た。

 しかし1978年、大学当局は学生との団体交渉を拒否し、また確約の破棄を一方的に行った。以降、1979年には学寮の運営に関して会計検査院から総長宛に不正常指摘がなされ、政府・文部省の学寮政策が京都大学の自治を脅かすことになる。大学当局もこれに同調し、寮運営を「正常化」3の名の下に、様々な介入を行った。4これに対して、吉田寮自治会は、大学当局の行いは厚生施設としての学寮の意義を損なうものであるとして真っ向から対立することとなる。

 結果として大学当局は現寮での「正常化」を断念し、新寮を建設する(現寮生の新寮への入寮を認めないことで人的つながりを断ち、自治会を瓦解させる)ことで事態の解決を図ることになる。1982年、大学の最高機関とされる評議会において、「吉田寮の在寮期限を昭和61331日とする」という「在寮期限」5が設定されることとなった。この過程において、寮生らとの交渉の場は一切設けられず、また、評議員の中には「正常化」を理由にした廃寮に異を唱える者もいたため、表向きは「老朽化」のみを理由として掲げており、寮自治会としては「在寮期限」を到底認めることはできなかった。以降、「在寮期限」に対する全学的な反対運動が巻き起こることになる。

 吉田寮自治会は寮生のみならず、学内、学外から広く協力を得、廃寮化反対運動を行った。結果として、「在寮期限」到来後も強制的に叩きだされることはなく、その後、長きにわたる運動の結果、1989年、評議会が「在寮期限」終了を承認することで、ひとまずの決着となった。

 「在寮期限」に対する反対運動のさなかにあっても、自主入寮選考は行われ、100名以上の寮生が住み続け、現在に至るまで吉田寮、及び自治会は存続しているわけだが、その中で失ったものもあった。6寮生の叩きだしは免れたものの、「在寮期限」である1986331日をもって、大学職員であった炊フ2名が配置転換された。来たるべき「在寮期限」を控え、自治会内部では、寮食堂の運営を続けるべく話し合い7が行われていたものの、実を結ぶことはなく、このようにして吉田寮食堂は寮食堂本来の機能を失うことになった。

 

3 「在寮期限」直後の吉田寮食堂

 食堂機能喪失直後の吉田寮食堂は、それまでと同様、寮生が立て看を作ったり、吉田寮8やクリスマスパーティー9などの会場として、また、近隣のサークルの会議などにも使用されていた。ただし、当時の吉田寮新聞10によれば、

 

本当は週番制で全寮生による掃除が習慣化しているはずなのですが、「長期休暇は食堂掃除を駆逐する」とか(中略)四季折々の風邪に乗って聞こえてきます。そんなわけでほとんど2〜3ヶ月ぶりの掃除でした。

 

というように、ゴミ箱はあふれ、たばこの吸い殻も散乱し、犬の糞も落ちていたというような有り様であった。また、その掃除にしても、寮生は1桁しか集まらなかった。このときの寮生数は130名超であることから、食事を提供する機能を失ってしまった以上、食堂に対する関心は薄れていたといえるだろう。

 

4 1987年の吉田寮食堂とその存在意義

 食堂機能喪失から1年が経過した1987年に、吉田寮食堂はターニングポイントを迎える。

 

4.1 1987年の吉田寮食堂

 19876月に、吉田寮自治会は劇団「満開座」より、吉田寮食堂で公演を行いたいという打診を受けた。満開座は当時、大阪を拠点して活動していたが、京都での公演会場を探すうちに吉田寮食堂に行き当たった11。これに対して、吉田寮自治会内部では、「面白そうだ」という意見に加え、公演パンフレットに自治会の紹介文を挟むことで寮をアピールすることができるのではないか12、という思惑もあり(「在寮期限」終結は先に述べたように1989年であり、当時は反対運動のさなかである)、承認されることとなる。ただし、公演には当然それなりの出費が必要なため、観劇料を徴収する必要がある。吉田寮食堂という公共の場で料金を取るということをどう捉えるか、総計では相応の額となるだろうが、それを誰が管理し、責任を取るのかという議論がなされ、結果的に、吉田寮自治会が主催となり、自治会の文化活動の一つとして取り組むこととし、チケット収入のうちの一部13を電気代として、残りを満開座にギャラとして支払うということで落ち着いた。公演は1987917日から23日までの間、行われ、「御挨拶」と題された文書が公演パンフレットに挟み込まれた。以下、「御挨拶」の全文を引用する。

 

御挨拶
吉田寮自治会(執行委員会)
◇ ようこそ吉田寮へ。
 なぜ、学寮である吉田寮で芝居が行われるのか、と思いの方も多いことでしょう。
 当吉田寮は、寮生全員で寮自治会を結成し、大学当局から実際上の管理運営権を克ち取り、自主管理している寮です。上からの、往々にして画一的だったり一方的だったりする管理・支配に身を委ねるのではなく、この寮に生活する11人が自らの暮らす空間や仲間について関心と責任をもち、自分たちの意志に基づいて生活を律していくことが、実際の生活の現場に即した民主主義を貫徹していける道だと考えるからです。こうした考えを基に、この寮で、様々な寮生が常識・既成の観念にとらわれぬ自由な様式・思想の生活をしていたり、しようとしていたりします。
◇ この自主管理空間に対して、大学当局や文部省は、自主管理意識の重要な基盤となる寮生同士・寮内外の交流を分断し、かつ経済的な締め付けを強化する態度を取り続けています。現在では、見ての通り老朽化が激しく、新寮建て替えが緊要なことを逆手に取り、新寮建設と自治会解体を引き換えにする、という攻撃がかけられている上、一方的な「在寮期限」の設定および執行により、寮生への退寮を迫るという攻撃がかけられています。
 本日舞台となっているこの食堂も、'863月までは、その名の通り寮生の食生活を保障し、寮生はもちろん寮外の仲間も大勢集まれる共有空間として活躍していましたが、先述の「在寮期限」到来を口実に、一方的に炊フを配転され、休業のやむなきに至りました。
◇ 我々吉田両自治会は、先述の自治会解体攻撃に対しては、新自治寮建設の要求を全学的に、また(不十分ながらも)学外にも呼びかけて行なってきましたし、食堂休業に対しては、食堂再開の方向を模索するとともに、共有空間・自由空間としての食堂の機能を維持・拡大していく作業をしてきました。(新自治寮建設要求、食堂再開追求については詳細は別の機会にゆずりますが、ご希望できたらパンフなどさしあげますし、また、お近くの寮生に尋ねてみるのもよいかと思います。)
 共有空間・自由空間としての食堂を維持・拡張していく作業として具体的には、一部サークルなどの会議
・作業の場として借14すと共に吉田寮なりの自主管理に対するより深い関わりを呼びかけたり、'86年度NF(京大11月祭)の際には、P有志せんこはなび15主催の漫画家石坂啓先生の講演会企画に後援という形で参加し、会場として寮食堂を使ってもらう、といったことをしてきました。また、毎年5月の吉田寮祭では、寮生による芝居や映画など様々な企画の会場となっています。
◇ 我々の寮自主管理は、我々なりの自由を追求する活動ですが、それは決して我々だけの独善やわがままであってはならならい16と考えます。社会の名がて17の自らの位置・立場をしっかりと見据え、周囲の状況と地続きの存在である寮あるいは自己を認識することが大切だろうと思います。わがままでも追随でもなく、状況と自己双方を変革していけることが大切だろうし、そのためには、自己や状況を相対化するための、多様な第三者との出会い・交流が大切だろうと思います。寮生同士はもちろん、寮という枠にとどまらぬ、様々な交流や問題提起を通じて、我々の自由が、どのような、誰とつくる自由であるかがつかめてくると思います。また、我々が寮自主管理を通じてどのような意識や文化を生み出せたかを、寮外の人々にもしってもらい、またそこから寮自主管理の検証へとフィードバックしていく作業も大切でしょう。
◇ 今回のこの企画は、主催が当自治会文化部であり、自治会文化活動の一つとして取り組んでいます。整理して言うならば、※共有空間・自治空間としての寮食堂の機能の拡大・強化※吉田寮的文化の一端の表現※満開座と文化部・自治会、座員やお客さんと寮生などの様々なレベルでの交流※吉田寮という存在のアピール‥‥などを目的とした一種の祭です。今回の場合、芝居好きで満開座とつながりのある寮生の提起に基づき、寮内での討論を経て、上記のような意義から、とりあえず一つの試行として、同じ自主管理空間である京大西部講堂の運営形態なども参考にしながら、行なってみることになりました。いらっしゃったみなさんが、吉田寮や、吉田寮で芝居をやることにどのような感想を持たれるか、大変楽しみにしています。よろしかったら感想などお聞かせ下さい。
 なお、吉田寮自治会では、今年度NF(京大11月祭)にも何らかの企画参加をしたいと考えています。また、例年12月にはここ寮食堂にてクリスマス・ディスコ・パーティーを行なっております。詳細はまたいずれ何らかの形でお知らせできると思いますが、是非そちらの方にもいらっしゃってみて下さい。

 

 この「御挨拶」から、1987年時点で、吉田寮自治会が吉田寮食堂の存在意義を、本来の食堂とは違った点に見出していることがわかる。

 

4.2.1 1987年における、寮自治会にとっての食堂の存在意義

 寮外で、しかも学外の団体が公演を行うことは、吉田寮自治会にとっては初めてのことであったが、吉田寮食堂を外部にも開いていく意志と、その意義が語られている。吉田寮吉田寮生が自主管理するが、吉田寮生だけのものではなく外部に開かれているべきで、外部の人々との交流が寮の在り方をよりよいものにしていくだろう、そして食堂で行われるイベントが、そのためのツールとなり得る、という分析である。

 寮自治会は、炊フの配置転換後も、食事提供機能の再開を諦めたわけではなく、その後も大学当局と交渉を繰り返していたが、食事提供機能がなくとも積極的に食堂を活用していこうという方針が、満開座の公演の時点で立てられていたということになる。

 このように新たな機能・役割を与えられた吉田寮食堂であったが、一方で解決すべきこともあった。

 

4.2.2 寮自治会の危惧と内情

 「御挨拶」にあったように、吉田寮自治会と京都大学西部講堂とは組織的、人的なつながりがあった。これは西部講堂を管理・運営している西部講堂連絡協議会に吉田寮自治会文化部が加盟していることや、吉田寮新聞に西部講堂で行われるライブのビラが挟み込まれていたり、西部講堂で行われる演劇公演へのお誘いが寄稿されていることからも伺える。吉田寮自治会は、西部講堂がどのような状態で、どのように管理・運営されているかについて把握していたわけだが、そのために、満開座から打診があった当初から、自治会としては、一つの危惧を抱いていた。それは、吉田寮食堂で活動できると知った団体が、次々に押し寄せてくるのではないか、ということであった。満開座の公演で徴収したのは電気代のみであったので、西部講堂同様、一般の貸しホールと比較すれば、経済的な負担を抑えて公演を行えることになる。しかし、吉田寮自治会としては、自らにとって必要であると考えるからこそ外部に開くのであり、またそのことに共感する人にこそ吉田寮食堂で活動を行ってもらわなければ、単なる安いホールでしかなくなるのである。

 また、外部の、これからやってくるであろう使用者だけに問題があるのではなく、寮内においても決して意識の統一が図れているわけではなかった。というのも、満開座の公演に対して、多くの実生活上の「文句」18が出されたのである。これに対して寮内で以下の批判があった。

 

寮食堂という我々の自主管理する空間を、まがりなりにも共に使っている以上、寮生の日常生活におけるように、「文句」がでてくるのは当然のことである。まt、我々の管理する空間である以上、いうべきことは伝えていかねばならない。しかしながらこれらの「文句」は、寮食堂を「貸」している僕達の側から一方的に「借」りている側に言い放たれている面が強いように思う。
(中略)
今後、寮外とのつながり、という、というものを、どう具体化していくかという作業が極めて必要になっている。今回の公演については、1つに、寮外団体・個人とのつながり、2つに、このための位置手段としての寮食堂の我々の手による開放、という問題について、多くの課題をより明確にするものとしての「役割」をもったように思う。

 

4.2.3 外部団体への貸し出し継続

 このように、吉田寮食堂を外部に開いていくという試みは、滑り出しの時点ではかなりの未知の部分を抱え、不安要素もあったということだ。しかし、吉田寮自治会は、満開座の公演を経た後も、外部の使用を取りやめるという判断を下すことはなかった。満開座の公演を受け入れた理由の一つにあるように、吉田寮食堂でイベントが行われることが吉田寮のアピールにつながり、少しでも「在寮期限」撤回の助けになるのではないか、という考えがある程度共有されていたことが理由であろう。

 この時期には、例えば、補充入寮選考のための自治会の立て看が大学当局によって撤去される、自治会が時計台前で座り込みを行ったり、学生部の寮小委員に対して連日のように追及を行うなど、吉田寮自治会と大学当局とのやり取り・やり合いは依然として、かなりの頻度で行われていた。

 また、「在寮期限」を過ぎ、いつ強制的な叩き出しが行われてもおかしくない状態において、寮自治会が特に警戒していたのは、1989331日であった。というのも、大学当局は一方的に入寮募集停止を宣言しており、それ以前に入学、「正規」入寮した学部学生が最短修業年数で卒業するものとすれば、その日をもって、全ての「正規」寮生は卒業、並びに退寮することになるからである。

 そのような背景がある以上、吉田寮をアピールする機会を自ら手放すという選択肢を、吉田寮自治会が取ることはできなかったのである。                                                                                                                                                                                              

 

4.3 1987年における、食堂使用者にとっての食堂の存在意義

 一方で、食堂使用者は、食堂の存在意義をどのように考えていたのか。

 満開座の公演から一月ほどで、新たなイベントの打診が持ち込まれた。19高校生をはじめとしたアマチュアバンドのライブイベントであり、「BE FREE」という団体が主催のものであった。彼らが発行していた「学校解放新聞京都」の記事の中にこのイベントについて、以下の記述がある。

 

 今の学校にはいったい何がたらないんだろう。また、今の自分には。と考えてみると、ありきたりだけれど“自由”がたらないんだと思う。その中でも、それぞれの表現の方法の自由がないと。
 学校には、文化祭があるけれど、(中略)枠の中の自由はあるけれど、それぞれの自由がない。
 僕たちは、このイベントでその自由ってやつを、少しでも作っていきたい。

 

 これは、ライブ会場が確定する発行された号であるが、学校という枠に縛られない自由を模索する場として、吉田寮食堂が会場に選ばれたことになる。つまり、吉田寮食堂は、一般的な枠組みに囚われずに活動できる場所として捉えられていたということになる。

 

4.4 厨房使用者の登場

 また、食堂使用者と同じように厨房使用者も生まれた。これは食堂の調理・配膳スペースを使用して活動する人々であり、楽器を持ち込んで練習するバンドや、単に物置として活用する者、残された調理器具で料理をしたりと様々な人々が含まれた。食堂使用者と厨房使用者は、区分けされているものの、同じ建物を使うため、トラブルが発生した際には協力することが求められた。

 

5 食堂使用者の増加と自治会の対応

 そしてこれ以降、多くの個人・団体が吉田寮食堂にやってくることになる。

 

5.1 食堂使用者の増加

 「BE FREE」とほぼ同時期に、11月祭に合わせるかたちで、京大朝鮮語自主講座主催でマダン劇の上演が行われるた。生まれ変わった吉田寮食堂は、自主的な活動・創作の場として盛んに活用されることになる。

 

5.1.1 吉田寮食堂が混み始める

 当初から予想されていた通り、多くの団体が吉田寮食堂を使用したいとやってくるようになった。そのため、これまでは届け出等もなく自由に使っていた近隣サークルとの調整も必要になってきた。

 また、学内での自治空間、自主活動空間の減少が、混雑にさらに拍車をかけることとなる。

 

5.1.2 緊急避難所としての吉田寮食堂

 1988年9月に西部構内のサークルボックスが一部焼失。ボックスを焼け出されたサークルが活動場所、物品の置き場に困るのは当然のことである。さらに1989年7月には教養学部内にあった尚賢館が焼失した。尚賢館も多くの学生らが、サークル活動を始めとして様々に活用していた場所であった。

 活動拠点を失った学内のサークルまでもが、新たな活動場所を求めて吉田寮にやってくるようになった。

 

5.1.3 使用者増加による問題

 寮自治会としては寮食堂は単なる貸しスペースではない。共に場所を管理・運営していくことを指向しているために、それぞれの食堂使用者と理念を共有しなければならないわけだが、あまりに使用者が増えたため、ときにそれが困難になるほどであった。結果として、新しくやってきた使用者に対して十分な説明ができなかったり、あるいは旧来からの使用者であっても、例えば後片付けをせずに帰ってしまう者も見られた。

 

5.2 寮自治会の対応

 積極的に外部に開いていく目的の一つは、寮自治、学内自治への理解と支持を得ることであるのだが、吉田寮食堂を、単に好き勝手に使える場所としてしか考えないに使用者が増えたところで、自治空間、ひいいては吉田寮自治会への支持を新たに獲得できるはずがない。そのため、寮自治会はこうした問題への対応を取ることになる。

 

5.2.1 文書での注意喚起

 19899月頃には、寮自治会によって「吉田寮食堂を使用するサークルのみなさんへ」と題された文書が書かれている20。これには、「出したゴミは自分達で処理すること」、「施設・設備を壊さないこと」等の最低限の確認の後、「吉田寮食堂ホールは、使いたい物が、使いたいように使える、自由なスペースですが、ここがこうして使われるに至った経緯について知っておいてもらいたいことがあります」と続き、歴史的な経緯が書かれている。

 

現在、吉田寮食堂は、サークルの練習、演劇、ライブ等、多目的に様々な人達によって使われています。一通りの手続き(寮での総会など)をとれば、出来るかぎりの範囲内で自由にかつ無料で利用できる便利な空間なのですが、みなさんに是非知っておいていただきたいことは、この寮食堂が何の努力や犠牲もはらわずに存在しているのではないということです。

 

自治寮としての吉田寮を守る闘争が現在の多目的ホールとしての寮食堂を存続させているわけですが、そのようにして残った空間だからこそ、自治にもとづいた自主管理空間として文部省、大学当局の規制や(管理)にとらわれずに運営することが可能なのです。そして寮内外を問わず様々な人々が討論や自主的創造的活動を行えるような寮のあり方を我々は望んでいます

 

また、1991年頃には以下のような文書が書かれた。

 

吉田寮自治会では、これまで「自主的創造的空間」という理念を追求してきたという経緯があり、もともとそれは社会に普遍的に実現されるべきであるという立場を取ってきました。権力や世間一般の常識、活動資金の多寡(また、結果として儲かるかどうか)、といったことに縛られずに、ひとは自由な表現、活動ができるべきなのです(むろんそれは本来的な意義からして、表現の受け手、活動の影響を受けるひとの意志、思いを切り捨てるものであってはなりませんが)。
 当寮自治会が、寮外諸団体に寮の施設を貸し出すのは、こうした考え方を含め自治というやり方をわれわれと共有する機のある人たちになるべく広く寮を開いていこうという考えからです。吉田寮はホール・スペースなどを貸し出すサービス機関ではありません。当寮の施設を使うということは、部分的にせよ自治に参加す(5文字判読不能)だという自覚を持ってください。

 

しかし、文書が何度も出されていることからもわかるように、全ての団体が、寮自治会の主張を理解して食堂を使用しているという状況にはならなかった。

 

5.2.2 食堂局を組織

 1992年には寮自治会と食堂使用者とを橋渡しする組織として吉田寮自治会文化部内に新たに食堂局が組織された。食堂使用者と重点的に接するポストを設立することによって、単なる寮生と使用者という以上の関係を築くことが一つの目的であった。

 食堂局の設立に伴い、食堂使用に関しての承認プロセスも簡略化することとした。ライブや演劇公演で寮食堂を専有して使用したい場合、使用願いを提出することになっていたが、それまでは、使用願いは総会に直接持ち込まれ、議論されていた。それを、食堂局が使用願いを検討し、食堂局が問題ないと判断した場合は、寮内に1週間掲示を行い、そこで寮生から意見が出なければ承認される、という形式に変更した。これによって、総会で食堂使用者関連の議題に時間を割く機会は減少することになった。

 ただ、1993年頃になると、あまりにも多くの希望団体が来るので、食堂局員ですら全てを把握できない状態に陥ってしまうこともあった。そうした状況において、19936月には、寮生有志から食堂局への公開質問状が出されるという事態も招いた。公開質問状は、寮食堂をツールとして寮を外部に開いていくこと自体への反感というわけではなく、寮自治会が掲げている理念と、実際の使用者たちがあまりにかけはなれているのではないか、そのことを食堂局はどう考え、どう対処していくのか、という内容のものであった。

全てが食堂局員の責任に帰するというわけではないだろうが、寮生の中にはそれだけ不満を持つ者もいた。とはいえ、食堂局員がいくら熱心に働きかけたとしても一向に改めようとしない使用者もいたようである。1992年から1999年までの食堂使用スケジュールを書いたノートが吉田寮に残されているが、

 

こいつらはまた勝手に使ってた。23日前にも無許可で使用してた。
ばか たこ くそったれ こいつらなんかにかしたくないで

 

という書き込みが残されている。

5.2.3 食堂使用者会議の開始

 食堂使用者の単純な増加と、寮食堂を単なる貸しホールと考える使用者への対応として、1996年以降、月に一度、食堂局と食堂使用者が参加する会議が開かれることになり、この食堂使用者会議に出席しなければ使用願いを提出できないというシステムに変更された。これにより、使用日程の調整がより容易になり、食堂局と使用者との間で連絡がスムーズに行われるようになった。また自主管理を徹底するための話し合いも行われ始めた。これは必ずしも寮生主導というわけではなく、使用者の中には、自らレジュメを用意し、話し合いに臨むものもいた。

 

5.2.4 食堂使用マニュアルの整備

 食堂使用者会議における議論を経て、食堂使用マニュアルが整備された。このマニュアルでは「基本原則」として以下の三点が挙げられている。

 

吉田寮食堂は自主管理
 寮食堂の維持・管理は使用者一人一人の仕事です。借りるのではなく、食堂使用者会議の一員になり、自分が運営する立場になるのだと思ってください。
●食堂使用は自己責任
 吉田寮食堂は貸しホール、貸しスタジオではありません。管理者は一人一人の使用者です。ですから食堂を使うときの責任は基本的に主催団体のもとにあります。必要な仕事があればまず自分たちで、必要な交渉があればまず自分たちで、苦情がくればまず自分たちで対応するようにしてください。もちろん必要な助けをもとめてもかまいませんが、たのまなければ誰も何もしてくれませんし、失敗したらまず自分たちがリスクを負うのだということは忘れないでください。
●運営は話し合いで
 食堂に関する決まりごとは基本的に使用者会議での話し合いで決めましょう。日程がかぶった時、使用者同士で交渉が必要なときお、使用者同士の話し合いで決めてください。もし決まらなかったら……? じゃんけんでもしてください。

 

 寮生だけが寮食堂に責任を持つのではなく、食堂使用者もまた主体性を持って関わるべし、という精神がマニュアルに明記されていることがわかる。

 その後も、食堂使用に際して、全くトラブルがなかったわけではないが、こうした数々の対応が功を奏したのか、食堂の自治、食堂における自主活動そのものが大きく脅かされることはなく、こうした状況は2005年まで続いていくことになる。

 

6 2005年までの吉田寮食堂

 このように、満開座の公演以降、吉田寮自治会は数多くの食堂使用者を獲得することとなった。その中で、寮自治会、食堂使用者にとっての食堂の存在意義、意識の移り変わりはあったのか。

 

6.1 2005年までの時点における寮自治会にとっての食堂の存在意義

 満開座公演時の「御挨拶」とその後に出された文書を比べてみれば、寮自治会において、食堂の存在意義は1987年当時から変化していないことが見てとれる。

 また、結果として多くの食堂使用者を獲得したことから、吉田寮を積極的に外部に開くためのツールとして、吉田寮食堂は(その理念がどこまで共有されていたかには疑問が残るものの)ある程度機能を果たしていたといえるだろう。先ほど述べた、1992年からのスケジュールノートを見てみると、1週間、全く使用の予定がないということは、ほとんどない。逆に何団体かが同時に活動するためにシェアしていたり、一つの演劇公演が終わったその日から別の劇団が使用し始めるという例もまま見受けられる。このことが寮生の生活を圧迫することもあった。一例として、1995年には、卓球台が食堂に置かれたものの、使用希望団体が増え、あまりにも卓球で遊べないため、毎月第一金・土・日を寮生週間と名付け、他団体の独占使用は認めず、寮生が食堂ホールを使用できる日と定める、というできごとが起こっている。21

 イベント自体がトラブルを発生させることもあった。寮生たちの暮らす吉田寮吉田寮食堂はひとつながりになっているため、イベントに来た人がそのまま寮生たちの生活スペースに入ることができる。そのため、特に来客の多いイベントや、アルコール類を提供するイベントでは、来客たちが寮生の生活を脅かさないように気を配ることまで求められた。

 また、音の問題もあった。劇団の公演であれば、人の生の声であっても、近くの部屋には聞こえてくる。これがライブイベントになればなおさらである。2000年まで活発に行われていたShock-Do(食堂)ライブでは、16時に開演して、朝の4時、5時といった時間まで、入れ替わり立ち代りバンドが登場し、演奏が続くことも珍しくなかった。とはいえ、常に大音量を流し続けていた、というわけでもなく、朝の4時に、つじあやのが静かにウクレレの弾き語りをする、などというふうにある程度の配慮は行われていた。音という点で言えば、最も厄介なのは、テクノ、トランスといったイベントであった。夜に始まったイベントが、朝を通り越し、昼近くまで続けられることもあり、またその間、重低音が大音量で鳴り響き続けるため、寮生の苦情が多く寄せられ、イベントの最中に音量を下げるよう主催者に直接交渉する寮生もいた。もちろんそういったイベントを好む寮生もいたが、企画を承認するかどうか、総会で長時間もめるという事態も起こった。

 寮を外部に開く上で、様々な問題が発生するのは当然のことではあるが、寮生の間にはイベントへの理解、ひいては寮を外部に開いていくことに対する理解に関して、やはり温度差は存在していた。

6.2  2005年までの時点における食堂使用者にとっての食堂の存在意義

 先にも述べたことであるが、満開座の公演以降、かなり早い段階から、もともとは吉田寮と縁もゆかりもなかった人々が食堂使用者となっていった。それは吉田寮の周りで活動している学内サークルにおいても、学外からライブや演劇公演のためにやってくる人々においても言えることである。イベントの数が増えるにつれ、寮食堂でのイベントを見た人が、食堂使用者になるケースもあった。

 食堂使用願いには、なぜ一般の貸しホールではなく吉田寮食堂でイベントを行いたいのか書き込む欄が用意されているが、そこには「○○のライブを見て、自分もここでやりたくなった」「出費を低く抑えることができる」「広いスペースがあるので思うようにレイアウトできる」等、様々な理由が挙げられている。

 使用者それぞれの理由に違いはあれど、自分の望むかたちでイベントを行うことができるために吉田寮食堂を会場に選択しているわけであり、自主的な活動・創造を行う人々にとって、魅力的な場所であると言えるだろう。

 また、「今では京都中の劇団が公演を行う京都演劇のメッカ」として雑誌に掲載されたり、Shock-Doライブのステージに立つことが一種のステータスとして認識されるということもあった。

 

7 2005年から2008年までの貸し出し停止

 しかし、2005年、吉田寮食堂は突如としてイベントに使用できなくなってしまった。

 

7.1 吉田寮耐震調査

 20059月、吉田寮及び寮食堂の耐震強度調査が行われた。この当時、京都大学では建築物の耐震・免震化を推し進めており、吉田寮の調査もこの一環であった。この調査により食堂は耐震性に問題を抱えていることが数値として示され、議論の結果、寮自治会は、不特定多数の人が食堂を訪れるような性質のイベントには食堂を貸し出さないという決定を下した。これはつまり、ライブや演劇公演を吉田寮食堂で行うことはできないということである。

 

7.2 2006年の建て替え提案

 また2006年には、学生部から吉田寮の建て替え提案が示された。寮自治会と大学当局との交渉の末、結局破断になったものの、先の耐震調査の結果もあり、大学当局が再び建て替えを提案してくることや、今後、「在寮期限」と同様に、強硬的な態度に出ることも考えられる状態となった。

 そのような中で、寮食堂でのイベントに以前関わっていた人や、以前イベントを見たことのある人、噂を聞いて来た人などが、再び寮食堂でイベントを開催したいと、吉田寮にやってくるようになった。

 

7.3  食堂イベント再開準備会の結成

 食堂イベント再開を考える寮生・寮外生が集まり、 食堂イベント再開準備会を結成した。 200712月、食堂イベント再開準備会の主張は、

・寮食堂を寮の外部へ開くことで、吉田寮の存在をアピールするという目的があったはずである。

・耐震性への不安は解消されたわけではないが、各企画ごとにそれぞれ対応策を考えれば、イベントを行なってもよいのではないか

というものだった。総会においてこの意見は承認され、食堂イベント再開準備会は具体的な方策を練っていくことになる。その過程で食堂イベント再開準備会は食堂会議と名称を変更し、月2回ほどの会議を継続して行った。

 

7.4 イベント再開への議論

 不特定多数の人が食堂を訪れる場合、ネックになる耐震性への不安をどう解消するかということについて議論が重ねられた。例えば地震等で寮食堂が倒壊したとして、その責任を寮自治会は負いきれない。もちろん寮食堂の耐震強度を上げることも不可能である。結論としては、イベントのチラシ等に耐震性への不安があることを明記し、さらに会場でもその旨を確実に伝える、ということに落ち着いた。

 20085月には吉田寮祭において寮食堂が使用され、6月には主催者に寮生を含むイベントが行われ、さらに9月のは外部団体である「和太鼓ドン」がイベントを行った。こうして寮食堂の外部団体への貸し出しが再開されることになる。

 以降は以前の食堂使用者、新たに加わった使用者たちが会議を開き、イベントを行う、という2005年までと同じような状況となった。しかし、再び吉田寮の建て替え問題が持ち上がる。

 

8 2009年の建て替え提案

 2008年に福利厚生担当の副学長が交代したため、吉田寮自治会は確約を引き継がせるための団体交渉の準備を行なっていた。ところが大学当局からは新寮への建て替えに合意しない限り、確約の引き継ぎは行えないなどの発言があり、寮自治会は大学当局への警戒を強めていた。

 

8.1 「吉田南最南部地区再整備・基本方針 ()

 20094月、突如、大学当局から「吉田南最南部地区再整備・基本方針 ()」が寮自治会宛に提出される。これは、吉田寮吉田寮食堂を含む一帯を整備するというもので、2006年の建て替え提案同様に、寮自治会、食堂使用者にとってはあまりにも急な話であった。

 

計画全体の概要
(1)現テニスコートを移設・代替化して、その跡地に外国人研究者・留学生用の 「吉田国際交流拠点施設」を新たに建設する。
(2)その南側の現「焼け跡」と旧吉田寮食堂を取り壊した跡地に新しい寮(以下、「新吉田寮A棟」とする)を新たに建設する。
(3)現吉田寮を取り壊して、その跡地に新しい寮(以下、「新吉田寮B棟」とする)を新たに建設する。
(4)現「楽友会館」のを22改修を行う。
(5)学術情報センター(南館)と吉田南3号館のあいだの道路を南に近衛通まで延長する。
(6)現「学生集会所」をいずれかの時期に取り壊し、代替施設を確保する。

 

 この概要において、吉田寮の代替施設こそ設けられているものの、吉田寮食堂に関しては一切言及はなく、当初はまともな代替施設すら勘案されていなかった。これを受けて食堂使用者、及び厨房使用者は早速追及を行っていくことになる。これまで寮食堂で行われてきたイベントの一覧を作成し、いかに活用されてきたかを主張したり、学内において、学生らが自主的な活動・創造を行うことができるスペースが限られていること、つまり吉田寮食堂がなくなれば、そのスペースがさらに減少することを説明し、また、交渉に出てきている当局者の前でコントの実演を行うなど、これまでにないかたちでの訴えかけも行われた。しかし、6月に行われた折衝の場において大学当局は、吉田寮食堂を残そうという食堂・厨房使用者の考えは既得権益を主張しているに過ぎない、現在の寮食堂を残したいという意見も単なるノスタルジーではないのかと発言する。そういった大学当局の発言には、その場でも相当な反論がなされたが、食堂使用者・厨房使用者は連名で抗議文を提出することとした。

 

8.2 食堂使用者・厨房使用者の抗議文

 抗議文の冒頭において、単に既得権益を主張しているだけという大学当局の反論は、誠に遺憾であり、筋違いであると述べ、以下、その理由が述べられている。

 

運営形態については、09.05.18提出の添付資料23を見ていただけたら、いかに多くの団体が自由に使用しているか、あるいはどんな人でも利用可能な開かれた場所であるかということが分かるはずで、限られた団体だけがというような既得権益とは全く異なると考えます。
我々が守りたいのは、寮のあり方、自治空間であることです。私たちが守っているのは場所の性質であり、そのとき使っている人ではありません。交渉の場にいる人(折衝の場にいる人)はほとんどが少なくとも数年のうちにはいなくなる人であり、この場所を守ること自体によってその人たちが直接的に得をすることはありません。でもこの場所を守りたいというのはこのような稀少で素晴らしい場所がなくなってしまうのはもったいない、という動機に基づいており、既得権益を守りたいなどという動機では決してありません。
新しいものを建てたることにより使用希望者が増大するという保証はありません。このままの建物を補修し、外部にその素晴らしさをどんどん広めることで、使用希望者の増加を図るほうが、画一的な新しいものを建てるよりずっといいのではないかと考えますし、そういう努力を我々はしていると考えておりますので、既得権益といわれますのは大変遺憾です。

 

 さらに、かねてから吉田寮自治会が、食堂使用者・厨房使用者に対して説明してきた、吉田寮食堂を積極的に外部に開いていく意義が、この抗議文においては、食堂使用者・厨房使用者から大学当局に対して主張されることになる。

 

 現食堂は、23年前に当局が一方的に食堂としての機能を停止させた後、空いたスペースを有効に活用しようと寮生がそこでイベントを始め、また厨房では機材が持ち込まれバンドの練習の場となり、それらに惹かれる形で寮外の人も集まってきて、少しずつ現在の食堂のカタチが出来てあがってきました。
結果、そこは生活空間に隣接した表現・活動スペースであり、また様々な人が日常的に交錯する場所であるという(イベントを行う人、その観客、バンドの練習をする人、自販機を利用する人、シャワーに行く人、洗濯に行く人、日常のサークル活動をする人、ふらりと入ってくる人…)、他にはあまり見られない性質を持つ場所になりました。
もし、西村副学長が現食堂の在り方についてご不満なりこうした方がよいという意見をお持ちなのであれば、直接食堂会議に来て参加していただいて、きちんとそういった意見を提起していただければ、私たちはそれを真剣に検討します。そういう場所です。
 これは世間一般の「与える‐受け取る」という関係しか知らない人にとっては確かに分かりづらい運営形態かも知れません。しかしだからこそ守るべきであり、そういう考え方しか知らない人々に対し、投げかけるものを持つ「開き方」であり、他にはない教育的意義を有しています。

 

 また特筆すべき点として、ノスタルジーではないか、という大学当局への反論として、

 

 私たちが現在の食堂の建物を残してほしいと主張するのは、なんとなくこの場所の雰囲気が好きだからとか、木造建築がいいからだとか、この場所にいるとノスタルジーを感じるからとか、そういったことをただ漠然と主張しているのでは決してありません。
 私たちが現食堂を魅力的だと感じるのは、これまで挙げてきたような性質を持つが故、そこは常に新しい出会いや新しいものが生まれてくる可能性を孕んでおり、またその結果生み出てきたものが堆積してきた歴史的な場の雰囲気が、私たちをさらに新しいものへと駆り立てる力を与えてくれるからです。
 そういった様々な条件が絡み合い堆積してきた結果を私たちは「雰囲気」と言っているのであり、その中の「木造」という部分だけを分離し取り出してどうにかなると考えるのは、「文化」や「生活」といったものを大変馬鹿にした発想であると思います。
後ろを向いてここが好きだと言っているのではなく、前を向く力をこの場所が本質的に有しているからこそ好きなのであり、残したいと主張するのです。

 

と応じた。食堂使用者・厨房使用者によるこの主張は、少なくとも「在寮期限」以降の廃寮化反対運動の中でも言語化、主張されることのなかったものであった。このような意見が、寮自治会からではなく、食堂使用者・厨房使用者の連名で提出されたことは、注目に値するだろう。

 

9 結論

 その後も、寮自治会、食堂・厨房使用者と大学当局との交渉は続き、10月に行われた副学長との団体交渉は14時間を超えるという異例の事態となった。それ以降も吉田寮の老朽化解決、新寮建て替えに関して交渉は続けられ、2012918日に行われた赤松明彦副学長との団体交渉において、吉田寮自治会は画期的な確約を得た。

 

吉田寮食堂を、現在地において今の姿を最大限残した形で補修すること
吉田寮食堂西側の広場に建設予定の吉田寮新棟を、木造と鉄筋コンクリート造を組み合わせた混構造にし、A棟建設に合意すること
吉田寮現棟の建築的意義を認めたうえで、現棟の老朽化対策について今後も協議を継続すること

 

項目1から項目8を確約したうえで、A棟建設に合意し、基本設計に着手する。また、大学当局は今後速やかに吉田寮食堂の耐震補修を行う。

 

吉田寮現寮(管理棟・居住棟)の建築的意義
 第一に、吉田寮現棟は周辺環境とともに、建築として優れた価値を有する。吉田寮現棟には優良な木材が使われており、居室は全て南向きに配置されている。また、三棟ある居住棟それぞれの間には豊かな樹木群が生い茂る広い庭がある。そのため、日当たり・風通しが大変優れており、寮生の快適な生活を可能にしている。また、吉田寮現棟の庭には多種多様な生命が生き生きと根づいており、その庭は吉田寮生のみならず、広くその庭を訪れる人にとって憩いの場としても機能している。
 第二に、建築史から見た価値が吉田寮現棟には存在する。吉田寮現棟は明治・大正期に洋風建築が普及していくなかで建てられた和洋折衷の建築物である。この時代に建てられた西洋の建築意匠・技術によって建てられた学生寮や寄宿舎は多いが、それらのほとんどは建て替えられてしまった。したがって、吉田寮現棟は明治・大正の建築意匠・技術を今に伝える希少な建築物となっている。このように歴史を体現して今に伝える建築物は、過去の事実を知り、未来の新しい考えを生み出す拠り所として貴重なものである。なお、こうした価値はある建物単体としてではなく、吉田寮現棟と隣接する吉田寮食堂棟などと不可分の建築群として、はじめて形成されるものである。
 第三に、一世紀にわたり動態保存され続けてきたことによる価値を吉田寮現棟は有している。このことは、自分たちの生活・活動の場をより良くしようとしてきた人々の普段の試行錯誤の結果であり、またそうした結果を引き継ぎ、今後も絶え間ない努力を可能にする場として、吉田寮現棟が存在することを意味する。この価値は、たとえば吉田寮現棟の一部をモニュメントなどとして残すのではなく、使い続けることによってこそ受け継がれていくものである。この価値もまた、第二に挙げた価値と同様に、吉田寮現棟のみならず、それに隣接する吉田寮食堂棟などからなる建築群によって、体現されていると言える。

 

 これまでの大学当局の対応からすればとてもではないが、このような確約が得られたとは考えられない。特に、建築的意義についても大学当局が認めたという状況は、むろん、寮自治会が粘り強く交渉を続けなければ得られなかったことであるが、寮生だけが大学当局と対していた場合、そもそも抜け落ちてしまいかねない視点ではないだろうか。2009年の交渉時に、食堂使用者たちが自分たちの活動場所への思いを言語化したことで、環境という観点がその後も交渉の中で引き続き議題に上がり、確約書に結実したといえるだろう。

 

 もちろん、現在の吉田寮自治会と食堂使用者の間にトラブルや行き違いがないと主張するわけではない。結局のところ、いまだに寮生によって、食堂イベントの捉え方には温度差が存在し、食堂使用者たちの間でも自治会の掲げる理念に対しての理解の深さは異なるだろう。少なくとも現段階において、寮外の人々を巻き込むため、積極的に吉田寮食堂を活用しようとした吉田寮自治会と、寮食堂に魅力を感じ、今なおそこで活動する食堂使用者は、よい共生関係を築けているといえるのではないだろうか

1食券を購入すれば寮生でなくとも喫食は可能であった。

2「基本的には」と述べたのは、現在も食堂の機器を使用しての調理は可能であり、普段から寮生が自炊したり、イベント時に食事を提供することは可能なためである。

3吉田寮自治会としては、そもそも学寮の運営が不正常であると認めていないため、大学が正常化を主張することは不当であるとして、「 」付きで記述された。

4在寮者確認(大学当局への寮生名簿提出要求、またこれに応じない者を正式な寮生と認めないと主張する)や、寄宿料及び水光熱費の納付要求がこれにあたる。

5「正常化」と同じく、寮自治会は一方的で不当な決定であるとして「 」付きで記述された。

6在寮者確認の受け入れ、寄宿料・水光熱費負担区分の納入、吉田寮西寮の撤去などがある。

7炊フを寮生が直接雇う、大学当局にパートとして雇用させる等の意見が出ていた。

8中断期間を経た後、1980年に再開された吉田寮の祭り。廃寮化反対運動の中で、年々規模を増していった。

91984年に開始された。ライブやダンスパーティーが行われ、寮外からも人がやってきた。

10吉田寮自治会文化部が1984年に発刊。幾度かの中断期間を経ながら、現在も不定期に発行されている。

11満開座とつながりのある寮生がいた。

12寮内会議資料より

13チケット収入の1万円未満の端数+1万円を電気代とした。

15京大学内の有志団体。

18「 」は元文書に従った。

19

20ただし、寮内資料として保存してあるものの実際に配布等されたかは不明である。また、寮内での検討を経て、いくつかの版が存在し、最終版がどのようなものになったのかも突き止めることはできなかった。

21その後自然消滅している。

23これまでの寮食堂でのイベントをリスト化したもの

京大吉田寮が老朽化してるのって、大学当局のせいだと思うんですけど

2015年7月29日、京大のサイトにふざけた告知が載せられた。
「吉田寮自治会への通知について」


 京都大学吉田寮の現棟は、平成17年度および平成24年度の耐震診断調査によって、耐震性を著しく欠くことが判明しています。今のままでは、大地震が発生した場合、建物が倒壊または大破し、寮生の生命が危険に晒されることが憂慮されます。

 学生寮について管理の責務を負う京都大学としては、寮生の安全確保を最優先する観点から、寮生の皆さんには、本年4月に竣工した新棟に順次転居してもらい、現棟の居住者をできるだけ速やかに減少させることが必要と考えています。

 このため、平成27年7月28日付けで、吉田寮自治会に対して、次の2点を求める「吉田寮の入寮者募集について」という通知(杉万俊夫 学生担当理事・副学長名)を発出しました。

吉田寮の新規入寮者の募集については、平成27年度の秋季募集から行わないこと。
吉田寮の寮生の退寮に伴う、欠員補充を目的とした募集を行わないこと。
 なお、新棟については、吉田寮生の一時的な居住場所として使用する期間の経過措置として、寮費を現行の月額400円のままとするなど、大学としても速やかな転居を後押ししていきます。

 京都大学は、今後とも、質の高い高等教育学術研究を推進していくための環境整備に努めていきたいと考えています。本学学生、教職員のご理解とご支援を引き続きよろしくお願いいたします。

平成27年7月28日

京都大学総長 山極 壽一

いやいやいやいや。
吉田寮がなんで老朽化してるかって、そりゃ大学当局が補修をさぼってきたからでしょ。
しかも、吉田寮に住んでる人間を減らしたあとで、どうするつもりなのかが書かれていない。

「いまさら木造建築とかアホかwww」という人は、ちょっと待ってほしい。
京都大学吉田寮以外にも木造建築を所有している。
西園寺公望の別邸として建設された清風荘 — 京都大学

旧演習林事務室 — 京都大学など。

さらには、吉田寮食堂を木造建築として補修したばっかりだ。
吉田寮だけは補修しないっていうのはおかしな話じゃないか。
昔、京大には大工(もしくは大工仕事ができる人)がいたんだけど、
木造の建物が減って仕事がなくなって、いなくなったって話をどっかで聞いた。
京都にある国立大学として恥ずかしくないのか。

かつて、地震学者であり、先々代の総長である尾池和夫氏が
吉田寮地震について講演してくれたことがある。
吉田寮はこれまでに震度5の揺れを4回経験してる」という話をされてた。
つまり、建てられた当初の姿を保つだけでも、震度5の地震には耐えられるはず。
さらに言えば。吉田寮第三高等学校寄宿舎の部材を再利用して建てられているんだけど、
元の三高寄宿舎も建築してから10年強の間に震度5を6回経験している。
だから、ちゃんとつくって、ちゃんと補修してれば木造でも大丈夫なんだっつう。
尾池さんは講演後、参加者とともに一緒に鍋をつついたんだけど、
その後にいただいた尾池さんの文章をそのまま載せたい。

——

 京都大学吉田寮を訪ねて     尾池和夫

 2009年1月24日土曜日、吉田寮を妻と訪れた。地下鉄東西線石田駅までまず歩いた。目の前に雪のある比叡山があり、それに部厚い感じの雲がかかっている。

  裏返してみたき冬雲比叡山  和夫

 東山駅で降りて聖護院の小道をたどって北風の中を歩いた。昨年9月までいつも通勤に歩いていた道を久しぶりに歩く。京都府南部に出ていた大雪の気象情報はすでに解除されて雪こそ降っていないが、吉田寮に近づくとともに空気がやたらと冷えてきた。たぶん零下の気温になっていると感じた。
 数年振りに吉田寮の門を入ると学生センターの佐野さんともう一人の職員の方が待っていた。休日にわざわざ出てきて外で待っていてくれた。吉田寮の玄関には中国人学生や日本人学生が数人待っていて、たいへん丁寧な言葉で案内してくれる。
「靴のままどうぞ」
 Tくんは文学部6回生で、今日の企画の提案者である。まずスライドのデータをUSBで渡して用意し、スライドの映写具合を確認して、長い寮内を案内してくれる。中寮の廊下を通り中庭に出る。
「あの猫は寮の猫の子どもです」
 そばにいる黒い太った猫が、どうやら親猫のようだ。
 南寮との間の庭に出る。銀杏の大木が相変わらずそびえている。自由の学風の象徴と見るか、切らないと寮にもたれて被害が出ると見るか、見方の分かれる木でもある。同行の数人の言葉に、それがあらわれている。
 北寮の外側に行ってみた。以前視察したとき、研究室のある建物を整備したとき、残土を寮に向かって押し出してきて、木造の寮の下の端に土が被さっているのを見た。その時、それをすぐに直すよう指示したことがあるが、完全には出来ていない。「寮なんてどうでもいいと思っているのだ」と以前の視察のとき、案内した学生たちの一人が吐き捨てるように言ったのを思い出した。
 北寮の廊下を歩く。見れば見るほど、がっちりした木造の建物の歴史が見えてきてうれしくなる。葉子もこの寮に初めて入って、すっかり気に入ったようだ。大きく伸び放題に伸びた樹木、雑然と置かれたさまざまの生活のための道具など、すべてが寮の象徴であり、歴史を物語る。
 談話室で講演した。「地震を知って震災に備える」とうい題で、地震の仕組みをしっかり話した。談話室に入りきれないほどの学生たちが集まってきた。日本語で話したので、日本語のわかる寮生が隣の学生に、中国語で同時通訳してくれている。談話室はよくできていて、寮生たちの熱気もあってか、ぜんぜん寒くなかった。約2時間、私はひたすら地震の話をした。的確な質問が途中で割り込む。質問の的が外れていないので気持ちがいい。気がついて振り返ると部屋に人がさらに溢れていた。
「こんなに集まると思ってなかったので」
 誰かが、この後の用意の心配をしている。
 講演の後は、吉田寮名物とも言える鍋である。世話役のTくんが、料金について説明して始まる。思い思いに、自分の箸と食器を持ってきて、でき次第に取って食べ始める。しばらくは議論も絶える。やや時間が経つと、また乾杯をして議論もする。
 気がついたら21時30分だった。記念写真を撮る人たちもあり、しばらく挨拶をして帰途についた。夜の空気を冷えていたが、たいへん暖かい気持ちでの帰り道だった。
「ずいぶん頑丈な建物で、よくできているから、きれいに整備して使うといいわね」
 長年、地震学者につき合ってきた妻の、帰り道での感想である。

  大寒や未来はここに吉田寮  和夫
——

吉田寮は一昨年の9月で開設100周年を迎えたわけだが、
僕が在寮した03年〜12年の10年間(←これ書くとまた炎上する)で実際に補修したのは、
雨漏りや廊下の土台とかそういう細かい部分だけで、大きな予算っていうのが一切ついてない。
なんでかって、そりゃ大学当局としては建て替えありきでしか考えてないから、
でかい予算なんかつけれるかいなという。
あんたねえ、コンクリ製の熊野寮だって、できてから50年建って、
結構大規模な補修してんじゃんか。コスパちゃんと計算しとるんかいと。
(記憶があやふやだが)2006年頃、
木造建築の工事・補修を手がけてる工務店に、
「建った当時の寮に戻す」見積もりを出してもらったら、
1億かからない(6000万ぐらいだった気がする)って話だった。
それが安いか高いかは議論があるところだろうが、
もともと大学がちゃんとこまめに補修しとけば、
それだけの金も必要になることはなかったはず。
長いこと手を入れなかったダメージが
土台をはじめとする構造に蓄積したせいで、大掛かりな工事が必要になってる。
自分たちが補修をさぼってきたことを棚上げにして、
老朽化を理由に吉田寮をつぶすつもりなのか。
つぶすとして、その後どうするつもりなのか。
何億もかけてコンクリの寮を建てるのか。
これから先のことに一切触れずにあんな文書出すのは無責任すぎる。


関西大学環境都市工学部の建築学科西澤英和教授の文章も紹介したい。
——
2012年3月4日
古い木造建築の構造対策を考える -吉田寮と旧食堂を巡ってー

                         西澤英和

●はじめに
 
 

吉田寮、学生集会所、そして旧食堂などの洋風木造建築群はぼちぼち竣工百周年を迎えるという。
 少し余談になるが、私が京都大学に入学したのは1970年。世間は大阪万博に沸き立つ一方、やや下火になりかけてはいたが、学園紛争の火の手はいたるところで強かった。あの頃わが国の人口は1億人を突破。多すぎる人口でやがて日本は持たなくなるとの悲観論を耳にした記憶がある。それから40年あまり、数年前に人口は1億2千数百万人でピークアウト。今度は人口減少で近い将来に日本は崩壊するとのご託宣がマスコミを賑わす昨今である。世の中は随分変わったとつくづく思う。


●建築技術から振り返る吉田寮界隈の木造建物

 さて、学生時代、私もしばしば吉田寮に友人を訪ねた。当時は、東大路側の入り口脇、学生集会所の向かいに音楽部の木造平屋の建物があったが、かなり前に焼失。昔に比べると銀杏並木の景観はやや寂しくなったが、このことを除くと40年前の記憶と今の吉田寮界隈の姿は殆ど変わらない。これは卒業生のみなに共通した感覚ではないかと思う。
 ところで、われわれが普通目にする木造家屋は50年も経つと随分古びた感じになるものだ。もちろん、吉田の木造建築にも雨漏れなどの傷みは確かに進んでいる。しかしながら、想像を絶するほど酷使され続けていることを考えると、この半世紀における建物の傷みの進み方は信じられないほど緩慢といえよう。
 これにはいくつかの要因が考えられる。
 まず指摘できるのは、木材の良さ。床板は全て柾目の長尺材。柱は大抵赤みの四方柾。シロアリや腐朽損傷を受けやすい源平材などは見当たらない。階段は手摺も踏み板も総ケヤキ造り。旧食堂の小屋組の木造トラスなどは寒暖の差に加えて湯気や湿気に何十年も晒されてきたにもかかわらず、捻じれや反りは認めがたい。今ではとても望めないような、天然の良質木材を吟味したからこそ、長年の風雪と酷使に耐え得たのであろう。
 

 もう一つは高度な設計と施工の技術。スレート葺きの学生集会所は文明開化後に導入された洋風木造を基調とし、一方、和瓦葺きの旧食堂や吉田寮は伝統的な和風建築の色彩が強い。とはいえ、いずれも小屋組みや架構の随所に洋風木造の新しい手法が取り入れられている。学生集会所は和三洋七、寮や旧食堂は洋三和七の和洋折衷建築とでもいえばよいだろうか?
 吉田寮に見られるような大規模な公共施設は江戸時代までの日本建築にはなかった新しいジャンルであった。そのため、時代の要請にこたえるべく、当時の建築界は洋風技術の導入と咀嚼に取り組んだ結果、明治末頃には洋風木造技術をすっかり国風化して、新しい和の造形美を競い合うまでになった。
 吉田の木造建築にはその頃の時代の息吹とともに、伝統の和風技法と洋風技法の融合によって生まれた新しい木造の造形美が表現されている。これが吉田界隈の木造建築の不思議な魅力に繋がっているのであろう。
 

 そして3つ目に環境との良き関わりを挙げてもいいだろう。鬱蒼とした高木、雑草が生い茂る中庭などはやや湿気勝ちであるが、不思議なことに、室内は鉄筋コンクリートの現代建築よりも明らかに快適だ。
 吉田寮が建設されたころの日本で重視されたのは、保健衛生であった。とりわけ若い世代を蝕んだ結核は亡国の病として恐れられたが、特効薬や予防接種がなかった時代、重視されたのはいかにして健康に良い建物-居住していて人が病気に罹らない建物を作るかということであった。ガラスがまだ国産化されていなかった時代になぜあれほど大きな窓や寮にしては贅沢すぎるベランダなどを設けたのだろうか?そこには太陽光線と清浄な空気をいっぱいに取り込もうとする当時の設計思想が感じられる。要するに吉田地区の木造建築は、健康を重視した理想的な住環境を作ることにあったように思えてならない。
 

 今や吉田寮などは周囲の環境や動植物とすっかり一体となって小さな生態系を形作っている。ここに棲むのは人だけではない。モグラにヤモリ、ヘビに鳥、無数の虫たちも吉田寮―私は勝手に京都の“ときわ荘”と呼んでいるがーの住民であり仲間でもある。このように人が作った環境に自然が根付く建物―それこそが、日本建築の理想である。
 このような理想の状態に近づくまでに実に百年の歳月を要したが、その背後には人の健康を守ろうとした設計者山本治兵衛氏とともに昔の棟梁や技能者の自然への敬意の気持ちがあったように思えてならないのである。


●耐震対策へのコメント

 今話題になっている旧食堂の耐震対策についての一見解を述べよう。
 古い木造建物の耐震化を考える際に大事なのは、構造補強を考えるより前に、まずは適切な修理を考えることである。どんなに優良な木材を使い、入念な施工がなされたとしても、維持修理が及ばず、木材が腐朽や蟻害によって著しく欠損すると、地震や台風などの自然災害が起こった時に本来の強度を発揮することはできないためである。
 また部材の修理と関連して、損傷の原因を見極め、将来同じ障害が起こらないための対策も忘れてはならない。
 因みに旧食堂の損傷は、外部の壁体や柱の基礎部に集中している。その原因は建物の周辺地盤が、当初の建物の床面より次第に高くなり、排水溝も塞がって雨水が建物に浸入しやすくなったために、木造の土台や柱の足元が腐朽や蟻害が生じ、壁下地などにも損傷が及んだためと考えられる。
 但し、旧食堂の柱の傷みは著しいが、このような状況に対する修理技術は既に1千年以上も前に確立されている。つまり、伝統社寺建築でよく行われている“根継”―腐朽した部分を取りさって、新しい健全な部材と部分的に取り換える修理を行えばよいのである。もし柱などの腐朽損傷がさらに広がっていれば、柱一本を丸ごととり替えたり、それに繋がる部材を作り替えることもさして難しくはない。
 なぜ、こんなことが可能かというと、伝統的な日本建築では主要な柱や梁などの軸組みが屋根などの大きな荷重を支えるように作られており、大きな面積を占める壁体の構造的な機能は建物の変形を抑制することに主眼が置かれているだけであって、上からの荷重を支持しなくてもよいからである。
 言い換えると、大きな鉛直荷重を支持する重要な柱が損傷した場合には、周辺の壁の一部を最小限解体し、そこに損傷した柱の荷重をバイパスさせる支えを入れることにより、元の柱の荷重を安全に他に流すことが容易である。こうして短期間仮支柱を入れて、損傷の著しい部位を根継したり、柱全体をとり替えたりするという建築的な手術が千年以上にわたって行われてきた。
 また、もし建物が不同沈下しておれば、バイパス支柱の下部にジャッキを入れて徐々に建物を持ち上げて変形を調整することもあわせて行うのが通例である。いわゆるジャッキアップである。一般に、木造建物は軽量なために、屋根瓦をわざわざ降ろすことなくジャッキアップを行うことも可能であるが、その際は屋根荷重の受け方などの検討を別途行うことになろう。
 やや、技術的な話にそれたが、旧食堂の将来の利用を考えた場合、私は”根継”を行うよりもむしろ煉瓦造の基礎や場合によっては土間部分を鉄筋コンクリートで補強し、さらに窓台の高さまでフーチングを高くする手法を提案したい。こうすれば将来周辺地盤が嵩上げされても雨水の浸入の懸念はなくなり、さらに根継に比べると随分工事が楽になるからである。
 実はこのように既存の木造柱の下部を切り詰めて、煉瓦やRC造の高基礎に置き換える工事が明治以降、京町屋などで盛んに行われるようになった。特に台所の井戸周りにそのような施工がなされたからか、”井戸引き”とも呼ばれたらしい。これも和の伝統修理技法のひとつである。
 更に、建物全体の耐震性を向上させるには漆喰や土壁で仕上げられた既存壁の一部をより強度の強い耐震壁に置換すれば現行基準を難なく上回る性能が実現できる。ただし、この場合でも安易に新建材に頼るのではなく、当初と同じく木、竹、砂、土、漆喰、そして若干の鉄材で伝統工法の作法どおりに施工することが望ましい。伝統的な自然素材を用いた木造耐震壁は文化財の保存修理などで最近普及していることを付記したい。

 最後に話は逆になったが、真っ先に取り組むべきは吉田寮や旧食堂の煉瓦造の防火壁の耐震化である。これらは耐震性については余り考慮されていない無筋煉瓦造の可能性が高いからである。特に、旧食堂などの防火壁は壁厚の割に高さが高いだけに、強い地震力が面外方向から作用すると、ブロック塀と同じように倒壊する危険性がはなはだ大きい。
 もし、建物側に何トンもの煉瓦塊が倒れこめば人的被害が及ぶ危険性が極めて高く、逆に外側に崩落すると木造架構全体を引き倒して同様に建物を大破壊させる可能性がある。
 しかしながら、吉田地区の防火壁は敷地条件に恵まれていることもあって、耐震補強はさほど困難ではない。早急な対応を望みたい。
 

 建築の医者の視点から思いつくままを記したが、今吉田地区の建物と同じ建物を建設するとして、これほどの良質な木材を大量に確保するにはどれほどの費用がいるのだろうか、あるいは大工や左官の人件費はどれくらいになるのだろうか?そんなことを考えても、早急な修理と耐震改修そして設備の近代化が望まれよう。
—-

尾池さんの吉田寮での講演で聞いた話だけど、
盆地っていうのは、地震によってつくられる。
なんで地震があるかって、そりゃ、活断層があるから。
川(つまり水源)があって、平坦な場所に人は住む。
っつうことは、昔から市街がつくられてきた盆地は
確実に活断層(もしくは旧活断層)があるところなわけ。

だから吉田寮は補修が必要。
いずれまた地震が起こることは確実なわけだから。
吉田寮自治会はこれまでも大学当局に補修を要求してきた。
その経緯を無視して、
自分たちが補修をしてこなかったことを棚上げして
吉田寮をつぶそうとしているなら、
地上げ屋とやってること変わらねえじゃねえか。

老朽化してる責任が大学当局にあることを認めたうえで、
「だから補修しますね」っていうのが筋じゃないのか。

 

2015/07/29 21:05追記

2006年には吉田寮の大規模補修のための調査が行われた。
その後、補修のための予算がつくかもしれないということで、
自治会としても、きちんと対応してる。
吉田寮は大きく分けて管理棟、北寮、中寮、南寮、そして食堂に分けられる。
寮生が住んでるのが北・中・南寮なんだけど、
そのうちの北寮からほかの棟へ、寮生を引っ越しさせた。
工事が入るなら、北寮が一番先になりそうだったからね。
結局、補修の話は立ち消えになったんだけど。

吉田寮では相部屋が基本だけど、
その際に寮生一人当たり、3.75畳を保障するというのが原則。
06年に北寮を空けたときには、当然ながらこの畳数を守ることはできなかった。

自治会がいろいろ対応したあげくに、
「補修の話なしね」ってことを今までやってきておいて、
何なんだ、この仕打ちは。

補修が終わった吉田寮食堂に行ってきた

週末、京都に滞在し、怒涛の日程を消化してきました。
ほんで吉田寮に行き、新しくなった吉田寮食堂と、
新たに建設された吉田寮の西寮(新棟)を堪能してきました。
誤解してる人が多いですが、もともとの吉田寮は存命で、食堂が新しくなって、
食堂の西側にあった通称・焼け跡と呼ばれるところに新しい建物が追加された状態です。
吉田寮食堂は食堂という名前でありながら、芝居やらライブやらが行われる
ちょっとへんてこなところで、僕個人にとってはホームグラウンドみたいなもんです。

吉田寮食堂の内部は、結構びっくりするぐらい、以前の状態を意識して工事されていて、
設計した人らも遊びながら仕事してくれたんならうれしいなと思いました。

新棟のほうは、まあきれいな建物やねって感じで、
今はよそ行きみたいな顔をしてますが、
あとは住む人たちがどうするか次第だなと。

吉田寮は長いこと大学当局から「老朽化している」と指摘されており、
寮生たちも長いことどうすっぺかと話し合いを続けています。
話し合っていると、建て替えたほうがいいとか、
補修したほうがいいとか、いろいろな意見が出るわけです。

吉田寮100年の歴史のうち、僕が在寮していたのは10年間ですが、
その期間に一人だけ明確に「老朽派」を名乗っていたやつがいます。
そいつは吉田寮がボロボロに朽ちていくことに意義を見出したわけですな。
僕自身、そいつの言ってたことには一定のシンパシーを感じていて、
ボロボロの建物っていうのは、そこに住んでた人のいろいろな記録の集大成でもあり、
それはとても優しいものなのではないかと思うのです。

僕は在寮中、吉田寮は食堂を含めて、絶対に補修して、
今のかたちをできる限り残すべきだと主張してました。
その根拠はいろいろとあるのですが、一番根っこの部分では、
僕が入寮した当初から既にボロボロだった吉田寮に、
そういう優しさ的なものを感じていたのでしょう。

ユニコーンの5枚目のフルアルバム『ヒゲとボイン』の中に、
『家』という大層地味な曲があります。
道路拡張の工事に引っかかった家が取り壊されて、
新しい家に引っ越したという歌なのですが、
もともとこの曲のことが好きだったうえに、
2008年頃に新寮建て替えの話が降って沸いた時期には、
個人的なアンセムにまで昇華され、寮祭で弾き語ったりもしました。

新生吉田寮食堂に立ち入れるようになったことは知っていたし、
知り合いが撮った写真も送ってもらっていたのですが、
はたして自分が実際にその姿を見たときにどう思うかなと、
ちょっとばかしどきどきしながらの対面でありましたが、
中に入ると、壁が白くなったけど、意外とそのままんまでワロタという気持ちと、
ここでこれから何をしてくれようかというわくわくした気分になりました。

結局、僕にとっては、ぼろさこそが吉田寮食堂であるというわけではなかったようです。
もちろん、補修前の吉田寮食堂との連続性を保っているからこそかもしれませんが、
がらんとした空間が「てめえはここで何をするのだ」と言ってくるのは、
以前の吉田寮食堂から何も変わらないなと思いました。

寮をどう運営するかの根本は吉田寮では寮自治会に委ねられてまして、
食堂においては、外部の使用者やらも一緒にいろいろ話したりしつつも、
最終的な決定権はやはり寮自治会が持ってるもんだと認識してます。
願わくは、食堂でいろいろな経験をした寮生たちが、
思いもよらない変なことを食堂でしでかしてほしいと思う所存です。

ちなみに吉田寮の新棟ですが、こちらも笑えるぐらいに、
木造建築を意識した外見となっていて、
これを見たときから、もともとの吉田寮は補修こそあれ、
建て替えはねえだろと確信した次第であります。

f:id:urotsuqu:20150320145434j:plain

東大路から吉田寮玄関を写す。手前左の建物が吉田寮新棟。
食堂は新棟に、吉田寮はトラックに隠れて見えないが元気にしてる。

雪の演劇祭2015で考えたこと - 観劇/コメント篇 -

今更ながら、すごくだらだらとした文章がしばらく続く気がする。

3月6日

僕が西和賀についたのは19時過ぎ。
本当は昼に着いて、稽古を見学したかったのだが、人にはいろいろと事情がある。
観光協会の高橋いくみさんにお出迎えしてもらい、
「いいですいいです。自分で払います」と断りながらも、カップヌードルをおごられ、
いざ銀河ホールへ(JR北上線ほっとゆだ駅から車で1分)。

半年ぶりに会う現地の人々に挨拶しつつ、
演劇とダンスの三団体の稽古を、ほんとにちょっとだけチラ見。
そして舞台上に出てた楽器で遊んでたら、旅館へのバスに乗り遅れる。

ふかふかの布団でぐっすり寝る。

3月7日

それぞれの団体の発表日であり、
コメンテーターとしての本番日でもある。
劇場入りしても自分が公演するわけじゃないので、居場所がない。
うろうろする。
福島県福島市の劇団、シア・トリエ(旧:満塁鳥王一座(まんるいとりきんぐいちざ))代表の
大信ペリカンさんと、
西和賀高校3年生の前生徒会長と、
西和賀町教育委員会教育長と対面。
僕を含めた4人が本日のコメンテーターである。
ペリカンと高校生と教育長がいる。ばか……な……。

観劇

・Art unit NANUK
稽古をチラ見したときから、「若そう」と思ってた。
本番でも若かった。
場面場面の絵面はきれいなんだけど、それがうねりになっていかない。
わっと盛り上がって、しぼんでしまう。
連続ドラマの間が1週間あいてしまうみたいな。
少し意地悪な言い方をすると、知識に実際がついていってない感じがする。
あるいは、衝動に理性がついていってない。
美的センスが致命的に欠けてる僕からすると、うらやましいところもありつつ、
見せ方にはやはり年長者である僕のほうが一歩先を行ってると思い、
とても安心した(コメンテーターとして致命的に人間が小さい)。

・今imaいま
ダンスである。
しかし、実演中に普通にセリフが出てくる。
このユニットの最大の面白味はギャップだと思った。
ダンス部分とセリフ部分のギャップ、
不吉なことを感じさせる雰囲気と、セリフとのギャップ。
一番面白かった瞬間は突如セリフが英語になる場面。
「え、なんで?」っていう衝撃。衝撃を受けながらニヤニヤする僕。
そこら辺のずれを自覚して武器にしようとすれば、強そうだという印象。
実演後の講評で作り手の話を聞き、それでやっと理由がわかった。
なぜ英語なのかわからなかったのは僕だけじゃないはずと思い、
とても安心した(コメンテーターとして致命的に人間が小さい)。

・銀鮭(スペアレ産)
結構やられた。結構っていうか、やられた。
前の2団体は「1週間の合宿」という枠の中で苦しんだ部分が見て取れたが、
このユニットはそういった破綻が見えてこない。
抑えるところはしっかりと抑え、押えるところはしっかりと押さえた秀作。
かわいらしさとまぬけさを前面に出すことで、業が生々しく映える。
「あっ、これは喀血劇場だ!」(何様だよ)と声が出そうになった。
僕が今までこの合宿事業で見た中で一番好みで、一番よかった。
この演出家って何歳なんだろうとジリジリした。
あとからわかったことだが、演出の中込さんは同学年。
とても安心した(コメンテーターとして致命的に人間が小さい)。
中込さんの今後の公演を絶対に見に行かねばと思った。
(中込さんは普段、「鮭スペアレ」という団体で活動している)

講評・座談会

全団体の公演終了後、講評とコメンテーターの座談会へ。
ここでの話は、各団体の作品に関するものに加えて、
西和賀という町で合宿しながら作品を作ることの意義や、
町が作り手を受け入れる意義、
これからの合宿事業の在り方など、話題は盛りだくさん。
僕からは、自分が合宿したからこそわかる話をメインにしゃべった。
何を話したか正直あまり覚えていないんだが、多分以下のようなこと。
・つい稽古しなきゃと思っちゃって、町の人との交流するのって難しいよね
・合宿している学生たちの足となる車がもっとあったほうがいい
・合宿期間中ずっと一緒にいるとつらい。逃げ場も必要
・実行委員だけでなくほかの町の人の協力が得られれば、もっと広がりが持てる
・普段自分たちが見せる客層と町の人は違うということをもっと意識してもいい

……しゃべったよな?

印象的だったのはコメンテーターのうち最年少の前生徒会長が、
とてもしっかりした内容の話をしていたこと。
しっかりしてはいるんだけど、でも、それって本当に本当?と
勘ぐってしまうのが僕の性格の悪いところだ。
彼は大学入学を期に町を出るが、いつかは町に戻ってきたいと言った。
多分、そのこと自体にうそはないんだろう。
しかし、町は2040年に人口が3000人を割るという試算がある。
岩手県下で最悪の人口減少率だ。(2014年5月 日本創生会議発表)
町でも話題になっていたので、前生徒会長はこのことを知ってるはず。

彼らが大学を卒業するまで最短4年。院に進めば6年。
よそで就職すると、帰ってくるのはさらに遅れる。
要は、彼らが帰ってきたいという町を残すためには、
彼らよりも上の世代が行動を起こさないといけない。
世代交代なんか待ってたら恐らくタイムアウトだ。
だから前生徒会長の町に戻ってきたいという思いが本当なら、
「自分がどうするか」という言葉の裏に、
「おまえら、ちゃんと戻ってこれるようにしてくれよ」という本音が
あるのではないかと勝手に類推してしまうのでした。

そして穴掘り/すもう篇に続く。書ければね。

雪の演劇祭2015で考えたこと - 総論というか前置き?

盛岡からの新幹線車上なう。
岩手県和賀郡西和賀町で行われた雪の演劇祭2015の帰り道である。
西和賀から東京に帰るなら、JR北上線に乗って北上まで出て、
そこから新幹線に乗ればいいのだが、盛岡の冷麺を食わずに帰るわけにはいかない。

さて、雪の演劇祭
2012年から3年間、夏の西和賀町で開催されるプレイ・タウンにかかわってきたが、
その縁で、今回の雪の演劇祭にコメンテーターとして呼んでもらった。
コメンテーターってなにすんのって、それは各団体の上演を見てコメントするわけだ。
そういうのは高間響国際舞台芸術祭というふざけた名前のイベント以来だった。

雪の演劇祭は合宿事業ということで、
やはり主催者側の意識が通常の演劇祭とはずいぶん異なる。
誤解を恐れずに言えば、上演する作品の質を第一には考えていない。
しかも合宿の地は、過疎と高齢化が絶賛進行中の人口6000人の町、西和賀である。
僕が3年間、夏の企画に参加して、ここで何かをやるというのなら、
ただ演劇を作るだけでは、普通なら出会わなかった人と出会うことこそが、
その最大の目的なのではないかと感じている。

僕が実行委員である森くんと、たまたま出会わなければ(Twitterで絡んだ)、
僕は西和賀町には一生行かなかったし、
TOEICの日づけを間違えて英語0点にもかかわらず院試に合格する人、
混浴があるべき姿だと力説する大学生といった年齢が近い人々ならともかく、
旅館組合の人や、観光協会の人や、町の職員、
地域の雪上すもう大会で取組よりもギャグに力をいれるおっさん、
生コン屋の息子、地域おこし協力隊員とは友達になる機会はなかっただろうし、
盛岡で冷麺を食うことも、なかったことはないにせよ、ずいぶん遅くなったことだろう。

そういうさまざまな出会いが僕の劇作に直接的に影響を与えた部分もあるし、
多分今後も、まだ今は水面化でくすぶっているものが、次第に形を成すこともあるはずだ。

自分の外から影響を受けるっていうのは、
大学に行ってても、バイトしてても、人と付き合っててもあることだし、
そんなもん西和賀みたいなとこに行かなくても十分摂取できてるよって人もいるんだろうが、
あいにく僕は人見知りの出不精なもので、
こんなにいろいろな立場・年齢の人々と友達になれるとは予想だにしていなかった。
演劇を通じて自分の世界を広げるっていうのはこういうことなんだなあとしみじみ思う。

演じるためには、舞台上や客席で起こっていることを感じることが重要なわけだが、
劇場を飛び出して、町やそこに住む人々のことを少しでも感じてみるのは悪くない。
もちろん合宿期間は一つの芝居を作るには短く、稽古に明け暮れてしまうのが常だろうから、
もっとよく知りたいと思えば、僕みたいに時折ふらふらと遊びにいく必要がある。

その点で言えば、西和賀町の町おこしは、少なくとも僕一人ぶんは成功しているし、
実際はもっと成功していて、これからはもっと成功する可能性があると思っている。

今回の雪の演劇祭、個人的ハイライトは、穴掘りとすもうなのだが、
それを含めた滞在中の出来事は、明日にでも書く。
なにしろ冷麺屋をはしごして腹いっぱい。頭が回んないしね。