適刊・近衛虚作

喀血劇場主宰・近衛虚作(このえ・うろつく)がつれづれに侍るままに、由無し事ども書きつくるなり

京都学生演劇祭の思い出やら

 飄々舎という団体に「寄稿したらどうなんだ」と言われたので、寄稿しました

京都学生演劇祭 同窓会報 号外Vol.1 (100円)|飄々舎|note

 おんなじ内容の文章にいくら金を出すかは各個人が選べます。

 自分の文章は1時間ちょっとぐらいでパパッと書いたし、別に出し惜しみするようなものでもないので、こちらにも同じ内容を貼っときます。

 本当は三章立ての小説を書くつもりだったんだけど、岩手と京都を往復するから無理だった。

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 喀血劇場は第二回(2012年)、第三回(2013年)の演劇祭に参加しました。

 第二回では学部9回生(当時)の唐仁原俊博が脚本・演出を務め、観客投票において、西一風に次ぐ、二位という成績を収めることができました。

 第三回では学部10回生(当時)の近衛虚作が脚本・演出を担当。(元主宰の唐仁原はいつの間にやら消滅しました。)学部10回生が二人も舞台に上がったし、舞台経験がほぼ皆無の人も含め、5回生以上の役者が複数出ていたり、最年少は高校二年生だったりと、「学生であること」というレギュレーションを逆手に取り、好き放題にやりまくりました。どうやら好き嫌いが激しく分かれる作品に仕上がっていたようで、お客さんの評価もバラバラで、審査員の皆さんには概ね好評でしたけれども、観客投票の上位争いに絡むことはできませんでした。

 

 さて、演劇のみならず、芸術というものは内発的なものであるといわれます。とはいえ、自分を取り巻く外の環境は当然ながらそれに影響を与えます。

 たとえば、第二回において唐仁原は、学生演劇祭の主な客層である学生をメインターゲットに作品をつくりました。学生演劇をやっている人や、やっていた人、いまも続けている人に向けて、「こういうことがあるから、やってらんねーときもあるけど、それでもやりたくなることもあるから、素敵じゃんね」という話です。

 唐仁原の弁によれば、学生演劇祭に参加しなければ、あの作品が書かれることもなかっただろうということでした。つまりは、場が設定されることで、自分の中にあった思い・考えというものが、かたちになって表れたということです。

 

 第三回において、私も似たような経験をしました。種々の事情により脚本が完成せず、実行委員をはじめ、多くの人に迷惑をかけてしまいましたが、それでも上演にこぎつけたのは、これ以上各方面に迷惑はかけられないから、絶対にやらねばと思うことができたからです。

 もし自主公演であれば、公演中止もあり得たほどにギリギリに作品が仕上がりました。いまだから言いますが、稽古期間は3週間ほど。稽古開始時には脚本も完成していませんでした。もともと、前年の夏ぐらいから少しずつ書いていた脚本でしたが、20人近くいた登場人物を削り、新たな結末を探しました。本当に上演できるかわからない状態でも、私の呼びかけで集まってくれた人たちがいたおかげで、登場人物に命が吹き込まれ、この登場人物たちであれば、45分の物語の結末はこれ以外ないというところまで書き上げることができました。いま読み返してみても、それまでの自分の経験がきっちりと反映された脚本になっています。唐仁原のケースと同じで、やはり自分の頭の中で渦巻いていたいろいろな思い・考えが、「学生演劇祭でやる」という外圧により押し出されたわけです。

 そして、来てくれる人は学生演劇に多少なりとも興味のある人であるのだから、その人たちに、できる限りのムチャを見せてやろうという考えもありました。ちんこをモチーフにしたゆるキャラとか、寝取られエンドはあまり学生演劇では見られないものです。そういうものを積極的に採用したのは、やはり客層を意識していたからです。

 自分の外の環境も考慮に入れながら、かたちにするものを取捨選択はしましたが、できあがったものは、私にとっては普遍的な、世の中にありふれているものを余すところなく表現したものに仕上がったのです。

 

 学生演劇祭というのは、普段の各団体の公演とは、環境もお客さんも違っているはずです。ただ、そういった場で初めて湧いてくるものもあるということを私は言いたいのです。

 第一回京都学生演劇祭が開催されるということを知ったときに、私は正直、「どうせしょうもないのしか出てこねえんじゃねえの」と思っていました。しかし、学生演劇祭があるからこそ生まれる作品があるということを、自分の経験で身をもって知ることになりましたし、唐仁原や私が敗北を重ね、多くの人が「おまえのより、こっちのほうが面白いし」と感じたという事実は、自分が取り上げたいことは変えずとも、もっといろいろな表現の仕方があるはずだと考える機会にもなりました。

 というわけで、いまのところ私は、京都学生演劇祭について、肯定的な立場です。

 

 ただ、危惧していることもあります。

 学生演劇祭が悪いやつの食い物にされることです。いまのところ、規模的にその心配は杞憂だとは思いますが、どこかの企業とべったりになったり、誰かの金儲けのために利用されるようになったり、あるいは、「とにかく派手ででかいイベントをやりたい」というような人で実行委員が占められてしまったり、といった事態を想定しています。もしそうなってしまえば、それは学生演劇の祭りではなくなってしまいます。

 そんな事態を避けるためには、事務局をやっている沢だけでなく、ドラフト会議みたいにバカな企画を実行する高間響とか、私も含めた学生演劇上がりの人々が、目を光らせておく必要があるだろうなと思っています。

 

 ああ、そう。今回の「架空予約疑惑」ですが、これが本当に悪意ある何者かの仕業であるなら、絶対に許すつもりはありません。ただ、「それでも頑張ってる学生は偉い」的なノリになってくると、それはちょっと違うんではないかなと思うのです。

 甲子園で行われる高校球児の野球に、勝手にいろいろなものを上乗せして楽しむのは、私は嫌いです。今回も「オコエがサバンナで野生でなんちゃら」みたいな記者が叩かれたりしましたが、そんなクソくだらないものを持ち込まれては、私がやってる側であれば、たまったものではありません。そういう変なストーリーを付与することは、悪いやつを呼びこむことにもつながっていきます。

 京都学生演劇祭は、あくまでも心から演劇をやりたいと思う人のための祭りであってほしい。いろいろと汚い手を使ってでも、一番面白い団体として評価されたかった私にとって、これは結構切実な思いです。各団体の個別の公演とは環境が違うけれども、作品自体が正当な評価をされるような環境が今後も続いてくれればいいな。

 

追伸

 結構いい文章が書けたと思うので、10月10日から12日まで、吉田寮食堂で行われる喀血劇場第九幕『うつくしい日々』にぜひともご来場ください。京都学生演劇祭2015の半券があれば、100円引きで観劇できます。詳細は当日パンフレットに挟み込まれている喀血劇場のチラシをご覧ください。

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以上。