適刊・近衛虚作

喀血劇場主宰・近衛虚作(このえ・うろつく)がつれづれに侍るままに、由無し事ども書きつくるなり

1980年以降の吉田寮食堂とその存在意義

大学を卒業してない私ですが、卒論は出したんすよ。
口頭試問で担当教授に
「これ、面白いけど、論文じゃなくてエッセーだよね」
と言われながらもはんこをもらったちょっと恥ずかしい文章ですが、
吉田寮が廃寮化された場合に、
京都の小劇場界隈が受けるダメージは計り知れないと思うのでまんま掲載します。
2013年1月に書いたものです。

 

『1980年以降の吉田寮食堂とその存在意義』
《研究目的》

 京都大学の学寮である吉田寮には食堂が併設されている。1980年代、大学当局が吉田寮を廃寮化しようとする動きの中で、この吉田寮食堂は機能と役割を大きく変えることとなる。それまでの、寮生に食事を提供する本来の意味としての「食堂」から、ときに「吉田寮食堂ホール」と呼ばれるような、寮の外部に開かれた、自主的な活動・創作の場として生まれ変わったのである。

 吉田寮食堂がターニングポイントを迎えて30年近く経った現在であるが、吉田寮自治会、食堂を活動の場とする人々(以降、食堂使用者とする)にとって、吉田寮食堂がどのような場であったか、またはあるのかということについての研究は行われていないと思われる。

 本論文の目的は、吉田寮食堂がターニングポイントを迎えた1987年からの、過去30年ほどの歴史を振り返り、寮自治会、食堂使用者それぞれが吉田寮食堂をどのように捉え、どのような存在意義を見出してきたのか、そして吉田寮食堂がその両者にとってどういった影響を与えたのかを明らかにすることにある。

 

《テーマの選定理由》

 最も大きな理由は筆者自身が吉田寮の寮生として10年間過ごし、また演劇活動に打ち込み、吉田寮食堂での公演も幾度と無く経験しているためである。長い大学生活の締めくくりとして、自身が最も親しんだものを題材とするのが当然であるという考えである。また、吉田寮には膨大な資料が保存されているが、それを紐解く寮生はごく一部に限られており、眠っている資料を再構成し、さらに考察を加えることで、吉田寮の歴史に興味を持つ者を増やすことができれば、吉田寮吉田寮自治会、関わってきた人々に対してささやかではあるが恩を返せるのではないかと思ってのことである。

 

 

1 そもそも吉田寮食堂とは何か

 吉田寮食堂は吉田寮の一部であり、吉田寮自治会が管理・運営を行なっている。

 

1.1 吉田寮の構造

 吉田寮1913年、京都大学学生寮として開設された。2001年に東京大学駒場寮が立ち退きの強制執行を受け閉寮となったため、現在は日本最古の学生寮となっている。構造としては、管理棟、北寮、中寮、南寮、および食堂に大きく分けられるが、全ての棟は接続されている。管理棟と食堂は平屋、ほかは2階建てであり、全て木造建築である。管理棟には、受付や事務室、寮内会議や催しに使用される大部屋や資料室といった共用スペースがある。北・中・南寮は寮生らそれぞれの居室となっている。そもそも、現在「吉田寮」と呼ばれている寮は「吉田東寮」であった。かつて京都大学薬学部構内に「吉田西寮」が存在したのだが、1989年に取り壊されている。

 

1.2 吉田寮自治会

 吉田寮は寮生全員から構成される吉田寮自治会によって管理・運営されている。

 自治会内には様々な役職・機構が存在するが、ここでは本論文に関係するものについてのみ述べる。

 執行委員会は自治会における窓口機関である。

 自治に関する様々な議題は総会と呼ばれる、寮生全員が参加できる会議において決められている。

 寮生は各々が文化部・厚生部・庶務部のいずれかに所属し、寮の管理・運営に関わる仕事を分担している。かつて吉田寮食堂が本来の食堂として機能していた際には、炊事部が存在していたが、後に解散している。また、食堂が自主的な活動・創造の場となって以降、1992年に、文化部内に食堂局が創設された。

 

1.3 吉田寮食堂

 前述の通り、吉田寮食堂は、吉田寮の一部である。一般に寮食堂は、寮生に安価でバランスの取れた食事を提供するという役割を担っており、それは吉田寮食堂においても例外ではなかった。1しかし、現在、吉田寮食堂は、基本的には食事を提供するという機能を失っている。炊事のための器具はあるにもかかわらず、実際に食事を作る炊フが存在しないためである。2食堂と冠してはいるものの、食堂本来の機能を果たしていないわけであるが、このような状態になったのは1980年代の学内情勢が直接の原因である。

 

2 1980年代の京都大学吉田寮

 京都大学においては、学寮の運営は早くから寮生の自治に委ねられており、吉田寮にあっては1968年度より寮自治会による自主入寮選考が行われるようになった。折しも全国的に学生運動が盛り上がり、そしてピークを過ぎた時期であるが、1971年には、吉田寮自治会・熊野寮自治会が学生部長と団体交渉を行い、自治会が入寮選考を行うことを大学当局に認めさせ、確約書を得た。

 しかし1978年、大学当局は学生との団体交渉を拒否し、また確約の破棄を一方的に行った。以降、1979年には学寮の運営に関して会計検査院から総長宛に不正常指摘がなされ、政府・文部省の学寮政策が京都大学の自治を脅かすことになる。大学当局もこれに同調し、寮運営を「正常化」3の名の下に、様々な介入を行った。4これに対して、吉田寮自治会は、大学当局の行いは厚生施設としての学寮の意義を損なうものであるとして真っ向から対立することとなる。

 結果として大学当局は現寮での「正常化」を断念し、新寮を建設する(現寮生の新寮への入寮を認めないことで人的つながりを断ち、自治会を瓦解させる)ことで事態の解決を図ることになる。1982年、大学の最高機関とされる評議会において、「吉田寮の在寮期限を昭和61331日とする」という「在寮期限」5が設定されることとなった。この過程において、寮生らとの交渉の場は一切設けられず、また、評議員の中には「正常化」を理由にした廃寮に異を唱える者もいたため、表向きは「老朽化」のみを理由として掲げており、寮自治会としては「在寮期限」を到底認めることはできなかった。以降、「在寮期限」に対する全学的な反対運動が巻き起こることになる。

 吉田寮自治会は寮生のみならず、学内、学外から広く協力を得、廃寮化反対運動を行った。結果として、「在寮期限」到来後も強制的に叩きだされることはなく、その後、長きにわたる運動の結果、1989年、評議会が「在寮期限」終了を承認することで、ひとまずの決着となった。

 「在寮期限」に対する反対運動のさなかにあっても、自主入寮選考は行われ、100名以上の寮生が住み続け、現在に至るまで吉田寮、及び自治会は存続しているわけだが、その中で失ったものもあった。6寮生の叩きだしは免れたものの、「在寮期限」である1986331日をもって、大学職員であった炊フ2名が配置転換された。来たるべき「在寮期限」を控え、自治会内部では、寮食堂の運営を続けるべく話し合い7が行われていたものの、実を結ぶことはなく、このようにして吉田寮食堂は寮食堂本来の機能を失うことになった。

 

3 「在寮期限」直後の吉田寮食堂

 食堂機能喪失直後の吉田寮食堂は、それまでと同様、寮生が立て看を作ったり、吉田寮8やクリスマスパーティー9などの会場として、また、近隣のサークルの会議などにも使用されていた。ただし、当時の吉田寮新聞10によれば、

 

本当は週番制で全寮生による掃除が習慣化しているはずなのですが、「長期休暇は食堂掃除を駆逐する」とか(中略)四季折々の風邪に乗って聞こえてきます。そんなわけでほとんど2〜3ヶ月ぶりの掃除でした。

 

というように、ゴミ箱はあふれ、たばこの吸い殻も散乱し、犬の糞も落ちていたというような有り様であった。また、その掃除にしても、寮生は1桁しか集まらなかった。このときの寮生数は130名超であることから、食事を提供する機能を失ってしまった以上、食堂に対する関心は薄れていたといえるだろう。

 

4 1987年の吉田寮食堂とその存在意義

 食堂機能喪失から1年が経過した1987年に、吉田寮食堂はターニングポイントを迎える。

 

4.1 1987年の吉田寮食堂

 19876月に、吉田寮自治会は劇団「満開座」より、吉田寮食堂で公演を行いたいという打診を受けた。満開座は当時、大阪を拠点して活動していたが、京都での公演会場を探すうちに吉田寮食堂に行き当たった11。これに対して、吉田寮自治会内部では、「面白そうだ」という意見に加え、公演パンフレットに自治会の紹介文を挟むことで寮をアピールすることができるのではないか12、という思惑もあり(「在寮期限」終結は先に述べたように1989年であり、当時は反対運動のさなかである)、承認されることとなる。ただし、公演には当然それなりの出費が必要なため、観劇料を徴収する必要がある。吉田寮食堂という公共の場で料金を取るということをどう捉えるか、総計では相応の額となるだろうが、それを誰が管理し、責任を取るのかという議論がなされ、結果的に、吉田寮自治会が主催となり、自治会の文化活動の一つとして取り組むこととし、チケット収入のうちの一部13を電気代として、残りを満開座にギャラとして支払うということで落ち着いた。公演は1987917日から23日までの間、行われ、「御挨拶」と題された文書が公演パンフレットに挟み込まれた。以下、「御挨拶」の全文を引用する。

 

御挨拶
吉田寮自治会(執行委員会)
◇ ようこそ吉田寮へ。
 なぜ、学寮である吉田寮で芝居が行われるのか、と思いの方も多いことでしょう。
 当吉田寮は、寮生全員で寮自治会を結成し、大学当局から実際上の管理運営権を克ち取り、自主管理している寮です。上からの、往々にして画一的だったり一方的だったりする管理・支配に身を委ねるのではなく、この寮に生活する11人が自らの暮らす空間や仲間について関心と責任をもち、自分たちの意志に基づいて生活を律していくことが、実際の生活の現場に即した民主主義を貫徹していける道だと考えるからです。こうした考えを基に、この寮で、様々な寮生が常識・既成の観念にとらわれぬ自由な様式・思想の生活をしていたり、しようとしていたりします。
◇ この自主管理空間に対して、大学当局や文部省は、自主管理意識の重要な基盤となる寮生同士・寮内外の交流を分断し、かつ経済的な締め付けを強化する態度を取り続けています。現在では、見ての通り老朽化が激しく、新寮建て替えが緊要なことを逆手に取り、新寮建設と自治会解体を引き換えにする、という攻撃がかけられている上、一方的な「在寮期限」の設定および執行により、寮生への退寮を迫るという攻撃がかけられています。
 本日舞台となっているこの食堂も、'863月までは、その名の通り寮生の食生活を保障し、寮生はもちろん寮外の仲間も大勢集まれる共有空間として活躍していましたが、先述の「在寮期限」到来を口実に、一方的に炊フを配転され、休業のやむなきに至りました。
◇ 我々吉田両自治会は、先述の自治会解体攻撃に対しては、新自治寮建設の要求を全学的に、また(不十分ながらも)学外にも呼びかけて行なってきましたし、食堂休業に対しては、食堂再開の方向を模索するとともに、共有空間・自由空間としての食堂の機能を維持・拡大していく作業をしてきました。(新自治寮建設要求、食堂再開追求については詳細は別の機会にゆずりますが、ご希望できたらパンフなどさしあげますし、また、お近くの寮生に尋ねてみるのもよいかと思います。)
 共有空間・自由空間としての食堂を維持・拡張していく作業として具体的には、一部サークルなどの会議
・作業の場として借14すと共に吉田寮なりの自主管理に対するより深い関わりを呼びかけたり、'86年度NF(京大11月祭)の際には、P有志せんこはなび15主催の漫画家石坂啓先生の講演会企画に後援という形で参加し、会場として寮食堂を使ってもらう、といったことをしてきました。また、毎年5月の吉田寮祭では、寮生による芝居や映画など様々な企画の会場となっています。
◇ 我々の寮自主管理は、我々なりの自由を追求する活動ですが、それは決して我々だけの独善やわがままであってはならならい16と考えます。社会の名がて17の自らの位置・立場をしっかりと見据え、周囲の状況と地続きの存在である寮あるいは自己を認識することが大切だろうと思います。わがままでも追随でもなく、状況と自己双方を変革していけることが大切だろうし、そのためには、自己や状況を相対化するための、多様な第三者との出会い・交流が大切だろうと思います。寮生同士はもちろん、寮という枠にとどまらぬ、様々な交流や問題提起を通じて、我々の自由が、どのような、誰とつくる自由であるかがつかめてくると思います。また、我々が寮自主管理を通じてどのような意識や文化を生み出せたかを、寮外の人々にもしってもらい、またそこから寮自主管理の検証へとフィードバックしていく作業も大切でしょう。
◇ 今回のこの企画は、主催が当自治会文化部であり、自治会文化活動の一つとして取り組んでいます。整理して言うならば、※共有空間・自治空間としての寮食堂の機能の拡大・強化※吉田寮的文化の一端の表現※満開座と文化部・自治会、座員やお客さんと寮生などの様々なレベルでの交流※吉田寮という存在のアピール‥‥などを目的とした一種の祭です。今回の場合、芝居好きで満開座とつながりのある寮生の提起に基づき、寮内での討論を経て、上記のような意義から、とりあえず一つの試行として、同じ自主管理空間である京大西部講堂の運営形態なども参考にしながら、行なってみることになりました。いらっしゃったみなさんが、吉田寮や、吉田寮で芝居をやることにどのような感想を持たれるか、大変楽しみにしています。よろしかったら感想などお聞かせ下さい。
 なお、吉田寮自治会では、今年度NF(京大11月祭)にも何らかの企画参加をしたいと考えています。また、例年12月にはここ寮食堂にてクリスマス・ディスコ・パーティーを行なっております。詳細はまたいずれ何らかの形でお知らせできると思いますが、是非そちらの方にもいらっしゃってみて下さい。

 

 この「御挨拶」から、1987年時点で、吉田寮自治会が吉田寮食堂の存在意義を、本来の食堂とは違った点に見出していることがわかる。

 

4.2.1 1987年における、寮自治会にとっての食堂の存在意義

 寮外で、しかも学外の団体が公演を行うことは、吉田寮自治会にとっては初めてのことであったが、吉田寮食堂を外部にも開いていく意志と、その意義が語られている。吉田寮吉田寮生が自主管理するが、吉田寮生だけのものではなく外部に開かれているべきで、外部の人々との交流が寮の在り方をよりよいものにしていくだろう、そして食堂で行われるイベントが、そのためのツールとなり得る、という分析である。

 寮自治会は、炊フの配置転換後も、食事提供機能の再開を諦めたわけではなく、その後も大学当局と交渉を繰り返していたが、食事提供機能がなくとも積極的に食堂を活用していこうという方針が、満開座の公演の時点で立てられていたということになる。

 このように新たな機能・役割を与えられた吉田寮食堂であったが、一方で解決すべきこともあった。

 

4.2.2 寮自治会の危惧と内情

 「御挨拶」にあったように、吉田寮自治会と京都大学西部講堂とは組織的、人的なつながりがあった。これは西部講堂を管理・運営している西部講堂連絡協議会に吉田寮自治会文化部が加盟していることや、吉田寮新聞に西部講堂で行われるライブのビラが挟み込まれていたり、西部講堂で行われる演劇公演へのお誘いが寄稿されていることからも伺える。吉田寮自治会は、西部講堂がどのような状態で、どのように管理・運営されているかについて把握していたわけだが、そのために、満開座から打診があった当初から、自治会としては、一つの危惧を抱いていた。それは、吉田寮食堂で活動できると知った団体が、次々に押し寄せてくるのではないか、ということであった。満開座の公演で徴収したのは電気代のみであったので、西部講堂同様、一般の貸しホールと比較すれば、経済的な負担を抑えて公演を行えることになる。しかし、吉田寮自治会としては、自らにとって必要であると考えるからこそ外部に開くのであり、またそのことに共感する人にこそ吉田寮食堂で活動を行ってもらわなければ、単なる安いホールでしかなくなるのである。

 また、外部の、これからやってくるであろう使用者だけに問題があるのではなく、寮内においても決して意識の統一が図れているわけではなかった。というのも、満開座の公演に対して、多くの実生活上の「文句」18が出されたのである。これに対して寮内で以下の批判があった。

 

寮食堂という我々の自主管理する空間を、まがりなりにも共に使っている以上、寮生の日常生活におけるように、「文句」がでてくるのは当然のことである。まt、我々の管理する空間である以上、いうべきことは伝えていかねばならない。しかしながらこれらの「文句」は、寮食堂を「貸」している僕達の側から一方的に「借」りている側に言い放たれている面が強いように思う。
(中略)
今後、寮外とのつながり、という、というものを、どう具体化していくかという作業が極めて必要になっている。今回の公演については、1つに、寮外団体・個人とのつながり、2つに、このための位置手段としての寮食堂の我々の手による開放、という問題について、多くの課題をより明確にするものとしての「役割」をもったように思う。

 

4.2.3 外部団体への貸し出し継続

 このように、吉田寮食堂を外部に開いていくという試みは、滑り出しの時点ではかなりの未知の部分を抱え、不安要素もあったということだ。しかし、吉田寮自治会は、満開座の公演を経た後も、外部の使用を取りやめるという判断を下すことはなかった。満開座の公演を受け入れた理由の一つにあるように、吉田寮食堂でイベントが行われることが吉田寮のアピールにつながり、少しでも「在寮期限」撤回の助けになるのではないか、という考えがある程度共有されていたことが理由であろう。

 この時期には、例えば、補充入寮選考のための自治会の立て看が大学当局によって撤去される、自治会が時計台前で座り込みを行ったり、学生部の寮小委員に対して連日のように追及を行うなど、吉田寮自治会と大学当局とのやり取り・やり合いは依然として、かなりの頻度で行われていた。

 また、「在寮期限」を過ぎ、いつ強制的な叩き出しが行われてもおかしくない状態において、寮自治会が特に警戒していたのは、1989331日であった。というのも、大学当局は一方的に入寮募集停止を宣言しており、それ以前に入学、「正規」入寮した学部学生が最短修業年数で卒業するものとすれば、その日をもって、全ての「正規」寮生は卒業、並びに退寮することになるからである。

 そのような背景がある以上、吉田寮をアピールする機会を自ら手放すという選択肢を、吉田寮自治会が取ることはできなかったのである。                                                                                                                                                                                              

 

4.3 1987年における、食堂使用者にとっての食堂の存在意義

 一方で、食堂使用者は、食堂の存在意義をどのように考えていたのか。

 満開座の公演から一月ほどで、新たなイベントの打診が持ち込まれた。19高校生をはじめとしたアマチュアバンドのライブイベントであり、「BE FREE」という団体が主催のものであった。彼らが発行していた「学校解放新聞京都」の記事の中にこのイベントについて、以下の記述がある。

 

 今の学校にはいったい何がたらないんだろう。また、今の自分には。と考えてみると、ありきたりだけれど“自由”がたらないんだと思う。その中でも、それぞれの表現の方法の自由がないと。
 学校には、文化祭があるけれど、(中略)枠の中の自由はあるけれど、それぞれの自由がない。
 僕たちは、このイベントでその自由ってやつを、少しでも作っていきたい。

 

 これは、ライブ会場が確定する発行された号であるが、学校という枠に縛られない自由を模索する場として、吉田寮食堂が会場に選ばれたことになる。つまり、吉田寮食堂は、一般的な枠組みに囚われずに活動できる場所として捉えられていたということになる。

 

4.4 厨房使用者の登場

 また、食堂使用者と同じように厨房使用者も生まれた。これは食堂の調理・配膳スペースを使用して活動する人々であり、楽器を持ち込んで練習するバンドや、単に物置として活用する者、残された調理器具で料理をしたりと様々な人々が含まれた。食堂使用者と厨房使用者は、区分けされているものの、同じ建物を使うため、トラブルが発生した際には協力することが求められた。

 

5 食堂使用者の増加と自治会の対応

 そしてこれ以降、多くの個人・団体が吉田寮食堂にやってくることになる。

 

5.1 食堂使用者の増加

 「BE FREE」とほぼ同時期に、11月祭に合わせるかたちで、京大朝鮮語自主講座主催でマダン劇の上演が行われるた。生まれ変わった吉田寮食堂は、自主的な活動・創作の場として盛んに活用されることになる。

 

5.1.1 吉田寮食堂が混み始める

 当初から予想されていた通り、多くの団体が吉田寮食堂を使用したいとやってくるようになった。そのため、これまでは届け出等もなく自由に使っていた近隣サークルとの調整も必要になってきた。

 また、学内での自治空間、自主活動空間の減少が、混雑にさらに拍車をかけることとなる。

 

5.1.2 緊急避難所としての吉田寮食堂

 1988年9月に西部構内のサークルボックスが一部焼失。ボックスを焼け出されたサークルが活動場所、物品の置き場に困るのは当然のことである。さらに1989年7月には教養学部内にあった尚賢館が焼失した。尚賢館も多くの学生らが、サークル活動を始めとして様々に活用していた場所であった。

 活動拠点を失った学内のサークルまでもが、新たな活動場所を求めて吉田寮にやってくるようになった。

 

5.1.3 使用者増加による問題

 寮自治会としては寮食堂は単なる貸しスペースではない。共に場所を管理・運営していくことを指向しているために、それぞれの食堂使用者と理念を共有しなければならないわけだが、あまりに使用者が増えたため、ときにそれが困難になるほどであった。結果として、新しくやってきた使用者に対して十分な説明ができなかったり、あるいは旧来からの使用者であっても、例えば後片付けをせずに帰ってしまう者も見られた。

 

5.2 寮自治会の対応

 積極的に外部に開いていく目的の一つは、寮自治、学内自治への理解と支持を得ることであるのだが、吉田寮食堂を、単に好き勝手に使える場所としてしか考えないに使用者が増えたところで、自治空間、ひいいては吉田寮自治会への支持を新たに獲得できるはずがない。そのため、寮自治会はこうした問題への対応を取ることになる。

 

5.2.1 文書での注意喚起

 19899月頃には、寮自治会によって「吉田寮食堂を使用するサークルのみなさんへ」と題された文書が書かれている20。これには、「出したゴミは自分達で処理すること」、「施設・設備を壊さないこと」等の最低限の確認の後、「吉田寮食堂ホールは、使いたい物が、使いたいように使える、自由なスペースですが、ここがこうして使われるに至った経緯について知っておいてもらいたいことがあります」と続き、歴史的な経緯が書かれている。

 

現在、吉田寮食堂は、サークルの練習、演劇、ライブ等、多目的に様々な人達によって使われています。一通りの手続き(寮での総会など)をとれば、出来るかぎりの範囲内で自由にかつ無料で利用できる便利な空間なのですが、みなさんに是非知っておいていただきたいことは、この寮食堂が何の努力や犠牲もはらわずに存在しているのではないということです。

 

自治寮としての吉田寮を守る闘争が現在の多目的ホールとしての寮食堂を存続させているわけですが、そのようにして残った空間だからこそ、自治にもとづいた自主管理空間として文部省、大学当局の規制や(管理)にとらわれずに運営することが可能なのです。そして寮内外を問わず様々な人々が討論や自主的創造的活動を行えるような寮のあり方を我々は望んでいます

 

また、1991年頃には以下のような文書が書かれた。

 

吉田寮自治会では、これまで「自主的創造的空間」という理念を追求してきたという経緯があり、もともとそれは社会に普遍的に実現されるべきであるという立場を取ってきました。権力や世間一般の常識、活動資金の多寡(また、結果として儲かるかどうか)、といったことに縛られずに、ひとは自由な表現、活動ができるべきなのです(むろんそれは本来的な意義からして、表現の受け手、活動の影響を受けるひとの意志、思いを切り捨てるものであってはなりませんが)。
 当寮自治会が、寮外諸団体に寮の施設を貸し出すのは、こうした考え方を含め自治というやり方をわれわれと共有する機のある人たちになるべく広く寮を開いていこうという考えからです。吉田寮はホール・スペースなどを貸し出すサービス機関ではありません。当寮の施設を使うということは、部分的にせよ自治に参加す(5文字判読不能)だという自覚を持ってください。

 

しかし、文書が何度も出されていることからもわかるように、全ての団体が、寮自治会の主張を理解して食堂を使用しているという状況にはならなかった。

 

5.2.2 食堂局を組織

 1992年には寮自治会と食堂使用者とを橋渡しする組織として吉田寮自治会文化部内に新たに食堂局が組織された。食堂使用者と重点的に接するポストを設立することによって、単なる寮生と使用者という以上の関係を築くことが一つの目的であった。

 食堂局の設立に伴い、食堂使用に関しての承認プロセスも簡略化することとした。ライブや演劇公演で寮食堂を専有して使用したい場合、使用願いを提出することになっていたが、それまでは、使用願いは総会に直接持ち込まれ、議論されていた。それを、食堂局が使用願いを検討し、食堂局が問題ないと判断した場合は、寮内に1週間掲示を行い、そこで寮生から意見が出なければ承認される、という形式に変更した。これによって、総会で食堂使用者関連の議題に時間を割く機会は減少することになった。

 ただ、1993年頃になると、あまりにも多くの希望団体が来るので、食堂局員ですら全てを把握できない状態に陥ってしまうこともあった。そうした状況において、19936月には、寮生有志から食堂局への公開質問状が出されるという事態も招いた。公開質問状は、寮食堂をツールとして寮を外部に開いていくこと自体への反感というわけではなく、寮自治会が掲げている理念と、実際の使用者たちがあまりにかけはなれているのではないか、そのことを食堂局はどう考え、どう対処していくのか、という内容のものであった。

全てが食堂局員の責任に帰するというわけではないだろうが、寮生の中にはそれだけ不満を持つ者もいた。とはいえ、食堂局員がいくら熱心に働きかけたとしても一向に改めようとしない使用者もいたようである。1992年から1999年までの食堂使用スケジュールを書いたノートが吉田寮に残されているが、

 

こいつらはまた勝手に使ってた。23日前にも無許可で使用してた。
ばか たこ くそったれ こいつらなんかにかしたくないで

 

という書き込みが残されている。

5.2.3 食堂使用者会議の開始

 食堂使用者の単純な増加と、寮食堂を単なる貸しホールと考える使用者への対応として、1996年以降、月に一度、食堂局と食堂使用者が参加する会議が開かれることになり、この食堂使用者会議に出席しなければ使用願いを提出できないというシステムに変更された。これにより、使用日程の調整がより容易になり、食堂局と使用者との間で連絡がスムーズに行われるようになった。また自主管理を徹底するための話し合いも行われ始めた。これは必ずしも寮生主導というわけではなく、使用者の中には、自らレジュメを用意し、話し合いに臨むものもいた。

 

5.2.4 食堂使用マニュアルの整備

 食堂使用者会議における議論を経て、食堂使用マニュアルが整備された。このマニュアルでは「基本原則」として以下の三点が挙げられている。

 

吉田寮食堂は自主管理
 寮食堂の維持・管理は使用者一人一人の仕事です。借りるのではなく、食堂使用者会議の一員になり、自分が運営する立場になるのだと思ってください。
●食堂使用は自己責任
 吉田寮食堂は貸しホール、貸しスタジオではありません。管理者は一人一人の使用者です。ですから食堂を使うときの責任は基本的に主催団体のもとにあります。必要な仕事があればまず自分たちで、必要な交渉があればまず自分たちで、苦情がくればまず自分たちで対応するようにしてください。もちろん必要な助けをもとめてもかまいませんが、たのまなければ誰も何もしてくれませんし、失敗したらまず自分たちがリスクを負うのだということは忘れないでください。
●運営は話し合いで
 食堂に関する決まりごとは基本的に使用者会議での話し合いで決めましょう。日程がかぶった時、使用者同士で交渉が必要なときお、使用者同士の話し合いで決めてください。もし決まらなかったら……? じゃんけんでもしてください。

 

 寮生だけが寮食堂に責任を持つのではなく、食堂使用者もまた主体性を持って関わるべし、という精神がマニュアルに明記されていることがわかる。

 その後も、食堂使用に際して、全くトラブルがなかったわけではないが、こうした数々の対応が功を奏したのか、食堂の自治、食堂における自主活動そのものが大きく脅かされることはなく、こうした状況は2005年まで続いていくことになる。

 

6 2005年までの吉田寮食堂

 このように、満開座の公演以降、吉田寮自治会は数多くの食堂使用者を獲得することとなった。その中で、寮自治会、食堂使用者にとっての食堂の存在意義、意識の移り変わりはあったのか。

 

6.1 2005年までの時点における寮自治会にとっての食堂の存在意義

 満開座公演時の「御挨拶」とその後に出された文書を比べてみれば、寮自治会において、食堂の存在意義は1987年当時から変化していないことが見てとれる。

 また、結果として多くの食堂使用者を獲得したことから、吉田寮を積極的に外部に開くためのツールとして、吉田寮食堂は(その理念がどこまで共有されていたかには疑問が残るものの)ある程度機能を果たしていたといえるだろう。先ほど述べた、1992年からのスケジュールノートを見てみると、1週間、全く使用の予定がないということは、ほとんどない。逆に何団体かが同時に活動するためにシェアしていたり、一つの演劇公演が終わったその日から別の劇団が使用し始めるという例もまま見受けられる。このことが寮生の生活を圧迫することもあった。一例として、1995年には、卓球台が食堂に置かれたものの、使用希望団体が増え、あまりにも卓球で遊べないため、毎月第一金・土・日を寮生週間と名付け、他団体の独占使用は認めず、寮生が食堂ホールを使用できる日と定める、というできごとが起こっている。21

 イベント自体がトラブルを発生させることもあった。寮生たちの暮らす吉田寮吉田寮食堂はひとつながりになっているため、イベントに来た人がそのまま寮生たちの生活スペースに入ることができる。そのため、特に来客の多いイベントや、アルコール類を提供するイベントでは、来客たちが寮生の生活を脅かさないように気を配ることまで求められた。

 また、音の問題もあった。劇団の公演であれば、人の生の声であっても、近くの部屋には聞こえてくる。これがライブイベントになればなおさらである。2000年まで活発に行われていたShock-Do(食堂)ライブでは、16時に開演して、朝の4時、5時といった時間まで、入れ替わり立ち代りバンドが登場し、演奏が続くことも珍しくなかった。とはいえ、常に大音量を流し続けていた、というわけでもなく、朝の4時に、つじあやのが静かにウクレレの弾き語りをする、などというふうにある程度の配慮は行われていた。音という点で言えば、最も厄介なのは、テクノ、トランスといったイベントであった。夜に始まったイベントが、朝を通り越し、昼近くまで続けられることもあり、またその間、重低音が大音量で鳴り響き続けるため、寮生の苦情が多く寄せられ、イベントの最中に音量を下げるよう主催者に直接交渉する寮生もいた。もちろんそういったイベントを好む寮生もいたが、企画を承認するかどうか、総会で長時間もめるという事態も起こった。

 寮を外部に開く上で、様々な問題が発生するのは当然のことではあるが、寮生の間にはイベントへの理解、ひいては寮を外部に開いていくことに対する理解に関して、やはり温度差は存在していた。

6.2  2005年までの時点における食堂使用者にとっての食堂の存在意義

 先にも述べたことであるが、満開座の公演以降、かなり早い段階から、もともとは吉田寮と縁もゆかりもなかった人々が食堂使用者となっていった。それは吉田寮の周りで活動している学内サークルにおいても、学外からライブや演劇公演のためにやってくる人々においても言えることである。イベントの数が増えるにつれ、寮食堂でのイベントを見た人が、食堂使用者になるケースもあった。

 食堂使用願いには、なぜ一般の貸しホールではなく吉田寮食堂でイベントを行いたいのか書き込む欄が用意されているが、そこには「○○のライブを見て、自分もここでやりたくなった」「出費を低く抑えることができる」「広いスペースがあるので思うようにレイアウトできる」等、様々な理由が挙げられている。

 使用者それぞれの理由に違いはあれど、自分の望むかたちでイベントを行うことができるために吉田寮食堂を会場に選択しているわけであり、自主的な活動・創造を行う人々にとって、魅力的な場所であると言えるだろう。

 また、「今では京都中の劇団が公演を行う京都演劇のメッカ」として雑誌に掲載されたり、Shock-Doライブのステージに立つことが一種のステータスとして認識されるということもあった。

 

7 2005年から2008年までの貸し出し停止

 しかし、2005年、吉田寮食堂は突如としてイベントに使用できなくなってしまった。

 

7.1 吉田寮耐震調査

 20059月、吉田寮及び寮食堂の耐震強度調査が行われた。この当時、京都大学では建築物の耐震・免震化を推し進めており、吉田寮の調査もこの一環であった。この調査により食堂は耐震性に問題を抱えていることが数値として示され、議論の結果、寮自治会は、不特定多数の人が食堂を訪れるような性質のイベントには食堂を貸し出さないという決定を下した。これはつまり、ライブや演劇公演を吉田寮食堂で行うことはできないということである。

 

7.2 2006年の建て替え提案

 また2006年には、学生部から吉田寮の建て替え提案が示された。寮自治会と大学当局との交渉の末、結局破断になったものの、先の耐震調査の結果もあり、大学当局が再び建て替えを提案してくることや、今後、「在寮期限」と同様に、強硬的な態度に出ることも考えられる状態となった。

 そのような中で、寮食堂でのイベントに以前関わっていた人や、以前イベントを見たことのある人、噂を聞いて来た人などが、再び寮食堂でイベントを開催したいと、吉田寮にやってくるようになった。

 

7.3  食堂イベント再開準備会の結成

 食堂イベント再開を考える寮生・寮外生が集まり、 食堂イベント再開準備会を結成した。 200712月、食堂イベント再開準備会の主張は、

・寮食堂を寮の外部へ開くことで、吉田寮の存在をアピールするという目的があったはずである。

・耐震性への不安は解消されたわけではないが、各企画ごとにそれぞれ対応策を考えれば、イベントを行なってもよいのではないか

というものだった。総会においてこの意見は承認され、食堂イベント再開準備会は具体的な方策を練っていくことになる。その過程で食堂イベント再開準備会は食堂会議と名称を変更し、月2回ほどの会議を継続して行った。

 

7.4 イベント再開への議論

 不特定多数の人が食堂を訪れる場合、ネックになる耐震性への不安をどう解消するかということについて議論が重ねられた。例えば地震等で寮食堂が倒壊したとして、その責任を寮自治会は負いきれない。もちろん寮食堂の耐震強度を上げることも不可能である。結論としては、イベントのチラシ等に耐震性への不安があることを明記し、さらに会場でもその旨を確実に伝える、ということに落ち着いた。

 20085月には吉田寮祭において寮食堂が使用され、6月には主催者に寮生を含むイベントが行われ、さらに9月のは外部団体である「和太鼓ドン」がイベントを行った。こうして寮食堂の外部団体への貸し出しが再開されることになる。

 以降は以前の食堂使用者、新たに加わった使用者たちが会議を開き、イベントを行う、という2005年までと同じような状況となった。しかし、再び吉田寮の建て替え問題が持ち上がる。

 

8 2009年の建て替え提案

 2008年に福利厚生担当の副学長が交代したため、吉田寮自治会は確約を引き継がせるための団体交渉の準備を行なっていた。ところが大学当局からは新寮への建て替えに合意しない限り、確約の引き継ぎは行えないなどの発言があり、寮自治会は大学当局への警戒を強めていた。

 

8.1 「吉田南最南部地区再整備・基本方針 ()

 20094月、突如、大学当局から「吉田南最南部地区再整備・基本方針 ()」が寮自治会宛に提出される。これは、吉田寮吉田寮食堂を含む一帯を整備するというもので、2006年の建て替え提案同様に、寮自治会、食堂使用者にとってはあまりにも急な話であった。

 

計画全体の概要
(1)現テニスコートを移設・代替化して、その跡地に外国人研究者・留学生用の 「吉田国際交流拠点施設」を新たに建設する。
(2)その南側の現「焼け跡」と旧吉田寮食堂を取り壊した跡地に新しい寮(以下、「新吉田寮A棟」とする)を新たに建設する。
(3)現吉田寮を取り壊して、その跡地に新しい寮(以下、「新吉田寮B棟」とする)を新たに建設する。
(4)現「楽友会館」のを22改修を行う。
(5)学術情報センター(南館)と吉田南3号館のあいだの道路を南に近衛通まで延長する。
(6)現「学生集会所」をいずれかの時期に取り壊し、代替施設を確保する。

 

 この概要において、吉田寮の代替施設こそ設けられているものの、吉田寮食堂に関しては一切言及はなく、当初はまともな代替施設すら勘案されていなかった。これを受けて食堂使用者、及び厨房使用者は早速追及を行っていくことになる。これまで寮食堂で行われてきたイベントの一覧を作成し、いかに活用されてきたかを主張したり、学内において、学生らが自主的な活動・創造を行うことができるスペースが限られていること、つまり吉田寮食堂がなくなれば、そのスペースがさらに減少することを説明し、また、交渉に出てきている当局者の前でコントの実演を行うなど、これまでにないかたちでの訴えかけも行われた。しかし、6月に行われた折衝の場において大学当局は、吉田寮食堂を残そうという食堂・厨房使用者の考えは既得権益を主張しているに過ぎない、現在の寮食堂を残したいという意見も単なるノスタルジーではないのかと発言する。そういった大学当局の発言には、その場でも相当な反論がなされたが、食堂使用者・厨房使用者は連名で抗議文を提出することとした。

 

8.2 食堂使用者・厨房使用者の抗議文

 抗議文の冒頭において、単に既得権益を主張しているだけという大学当局の反論は、誠に遺憾であり、筋違いであると述べ、以下、その理由が述べられている。

 

運営形態については、09.05.18提出の添付資料23を見ていただけたら、いかに多くの団体が自由に使用しているか、あるいはどんな人でも利用可能な開かれた場所であるかということが分かるはずで、限られた団体だけがというような既得権益とは全く異なると考えます。
我々が守りたいのは、寮のあり方、自治空間であることです。私たちが守っているのは場所の性質であり、そのとき使っている人ではありません。交渉の場にいる人(折衝の場にいる人)はほとんどが少なくとも数年のうちにはいなくなる人であり、この場所を守ること自体によってその人たちが直接的に得をすることはありません。でもこの場所を守りたいというのはこのような稀少で素晴らしい場所がなくなってしまうのはもったいない、という動機に基づいており、既得権益を守りたいなどという動機では決してありません。
新しいものを建てたることにより使用希望者が増大するという保証はありません。このままの建物を補修し、外部にその素晴らしさをどんどん広めることで、使用希望者の増加を図るほうが、画一的な新しいものを建てるよりずっといいのではないかと考えますし、そういう努力を我々はしていると考えておりますので、既得権益といわれますのは大変遺憾です。

 

 さらに、かねてから吉田寮自治会が、食堂使用者・厨房使用者に対して説明してきた、吉田寮食堂を積極的に外部に開いていく意義が、この抗議文においては、食堂使用者・厨房使用者から大学当局に対して主張されることになる。

 

 現食堂は、23年前に当局が一方的に食堂としての機能を停止させた後、空いたスペースを有効に活用しようと寮生がそこでイベントを始め、また厨房では機材が持ち込まれバンドの練習の場となり、それらに惹かれる形で寮外の人も集まってきて、少しずつ現在の食堂のカタチが出来てあがってきました。
結果、そこは生活空間に隣接した表現・活動スペースであり、また様々な人が日常的に交錯する場所であるという(イベントを行う人、その観客、バンドの練習をする人、自販機を利用する人、シャワーに行く人、洗濯に行く人、日常のサークル活動をする人、ふらりと入ってくる人…)、他にはあまり見られない性質を持つ場所になりました。
もし、西村副学長が現食堂の在り方についてご不満なりこうした方がよいという意見をお持ちなのであれば、直接食堂会議に来て参加していただいて、きちんとそういった意見を提起していただければ、私たちはそれを真剣に検討します。そういう場所です。
 これは世間一般の「与える‐受け取る」という関係しか知らない人にとっては確かに分かりづらい運営形態かも知れません。しかしだからこそ守るべきであり、そういう考え方しか知らない人々に対し、投げかけるものを持つ「開き方」であり、他にはない教育的意義を有しています。

 

 また特筆すべき点として、ノスタルジーではないか、という大学当局への反論として、

 

 私たちが現在の食堂の建物を残してほしいと主張するのは、なんとなくこの場所の雰囲気が好きだからとか、木造建築がいいからだとか、この場所にいるとノスタルジーを感じるからとか、そういったことをただ漠然と主張しているのでは決してありません。
 私たちが現食堂を魅力的だと感じるのは、これまで挙げてきたような性質を持つが故、そこは常に新しい出会いや新しいものが生まれてくる可能性を孕んでおり、またその結果生み出てきたものが堆積してきた歴史的な場の雰囲気が、私たちをさらに新しいものへと駆り立てる力を与えてくれるからです。
 そういった様々な条件が絡み合い堆積してきた結果を私たちは「雰囲気」と言っているのであり、その中の「木造」という部分だけを分離し取り出してどうにかなると考えるのは、「文化」や「生活」といったものを大変馬鹿にした発想であると思います。
後ろを向いてここが好きだと言っているのではなく、前を向く力をこの場所が本質的に有しているからこそ好きなのであり、残したいと主張するのです。

 

と応じた。食堂使用者・厨房使用者によるこの主張は、少なくとも「在寮期限」以降の廃寮化反対運動の中でも言語化、主張されることのなかったものであった。このような意見が、寮自治会からではなく、食堂使用者・厨房使用者の連名で提出されたことは、注目に値するだろう。

 

9 結論

 その後も、寮自治会、食堂・厨房使用者と大学当局との交渉は続き、10月に行われた副学長との団体交渉は14時間を超えるという異例の事態となった。それ以降も吉田寮の老朽化解決、新寮建て替えに関して交渉は続けられ、2012918日に行われた赤松明彦副学長との団体交渉において、吉田寮自治会は画期的な確約を得た。

 

吉田寮食堂を、現在地において今の姿を最大限残した形で補修すること
吉田寮食堂西側の広場に建設予定の吉田寮新棟を、木造と鉄筋コンクリート造を組み合わせた混構造にし、A棟建設に合意すること
吉田寮現棟の建築的意義を認めたうえで、現棟の老朽化対策について今後も協議を継続すること

 

項目1から項目8を確約したうえで、A棟建設に合意し、基本設計に着手する。また、大学当局は今後速やかに吉田寮食堂の耐震補修を行う。

 

吉田寮現寮(管理棟・居住棟)の建築的意義
 第一に、吉田寮現棟は周辺環境とともに、建築として優れた価値を有する。吉田寮現棟には優良な木材が使われており、居室は全て南向きに配置されている。また、三棟ある居住棟それぞれの間には豊かな樹木群が生い茂る広い庭がある。そのため、日当たり・風通しが大変優れており、寮生の快適な生活を可能にしている。また、吉田寮現棟の庭には多種多様な生命が生き生きと根づいており、その庭は吉田寮生のみならず、広くその庭を訪れる人にとって憩いの場としても機能している。
 第二に、建築史から見た価値が吉田寮現棟には存在する。吉田寮現棟は明治・大正期に洋風建築が普及していくなかで建てられた和洋折衷の建築物である。この時代に建てられた西洋の建築意匠・技術によって建てられた学生寮や寄宿舎は多いが、それらのほとんどは建て替えられてしまった。したがって、吉田寮現棟は明治・大正の建築意匠・技術を今に伝える希少な建築物となっている。このように歴史を体現して今に伝える建築物は、過去の事実を知り、未来の新しい考えを生み出す拠り所として貴重なものである。なお、こうした価値はある建物単体としてではなく、吉田寮現棟と隣接する吉田寮食堂棟などと不可分の建築群として、はじめて形成されるものである。
 第三に、一世紀にわたり動態保存され続けてきたことによる価値を吉田寮現棟は有している。このことは、自分たちの生活・活動の場をより良くしようとしてきた人々の普段の試行錯誤の結果であり、またそうした結果を引き継ぎ、今後も絶え間ない努力を可能にする場として、吉田寮現棟が存在することを意味する。この価値は、たとえば吉田寮現棟の一部をモニュメントなどとして残すのではなく、使い続けることによってこそ受け継がれていくものである。この価値もまた、第二に挙げた価値と同様に、吉田寮現棟のみならず、それに隣接する吉田寮食堂棟などからなる建築群によって、体現されていると言える。

 

 これまでの大学当局の対応からすればとてもではないが、このような確約が得られたとは考えられない。特に、建築的意義についても大学当局が認めたという状況は、むろん、寮自治会が粘り強く交渉を続けなければ得られなかったことであるが、寮生だけが大学当局と対していた場合、そもそも抜け落ちてしまいかねない視点ではないだろうか。2009年の交渉時に、食堂使用者たちが自分たちの活動場所への思いを言語化したことで、環境という観点がその後も交渉の中で引き続き議題に上がり、確約書に結実したといえるだろう。

 

 もちろん、現在の吉田寮自治会と食堂使用者の間にトラブルや行き違いがないと主張するわけではない。結局のところ、いまだに寮生によって、食堂イベントの捉え方には温度差が存在し、食堂使用者たちの間でも自治会の掲げる理念に対しての理解の深さは異なるだろう。少なくとも現段階において、寮外の人々を巻き込むため、積極的に吉田寮食堂を活用しようとした吉田寮自治会と、寮食堂に魅力を感じ、今なおそこで活動する食堂使用者は、よい共生関係を築けているといえるのではないだろうか

1食券を購入すれば寮生でなくとも喫食は可能であった。

2「基本的には」と述べたのは、現在も食堂の機器を使用しての調理は可能であり、普段から寮生が自炊したり、イベント時に食事を提供することは可能なためである。

3吉田寮自治会としては、そもそも学寮の運営が不正常であると認めていないため、大学が正常化を主張することは不当であるとして、「 」付きで記述された。

4在寮者確認(大学当局への寮生名簿提出要求、またこれに応じない者を正式な寮生と認めないと主張する)や、寄宿料及び水光熱費の納付要求がこれにあたる。

5「正常化」と同じく、寮自治会は一方的で不当な決定であるとして「 」付きで記述された。

6在寮者確認の受け入れ、寄宿料・水光熱費負担区分の納入、吉田寮西寮の撤去などがある。

7炊フを寮生が直接雇う、大学当局にパートとして雇用させる等の意見が出ていた。

8中断期間を経た後、1980年に再開された吉田寮の祭り。廃寮化反対運動の中で、年々規模を増していった。

91984年に開始された。ライブやダンスパーティーが行われ、寮外からも人がやってきた。

10吉田寮自治会文化部が1984年に発刊。幾度かの中断期間を経ながら、現在も不定期に発行されている。

11満開座とつながりのある寮生がいた。

12寮内会議資料より

13チケット収入の1万円未満の端数+1万円を電気代とした。

15京大学内の有志団体。

18「 」は元文書に従った。

19

20ただし、寮内資料として保存してあるものの実際に配布等されたかは不明である。また、寮内での検討を経て、いくつかの版が存在し、最終版がどのようなものになったのかも突き止めることはできなかった。

21その後自然消滅している。

23これまでの寮食堂でのイベントをリスト化したもの