適刊・近衛虚作

喀血劇場主宰・近衛虚作(このえ・うろつく)がつれづれに侍るままに、由無し事ども書きつくるなり

京都の学生演劇やってる人らに

10年間学生として過ごして、それ以上の見聞も特に無いんだけど、京都の学生演劇についてつらつら書く。

学生演劇やってる人に読んでもらいたいし、学生演劇を通過した人にも読んでもらいたい。

 

まず、私は学生劇団に所属したことがない。

喀血劇場は私が学生という身分だったから学生劇団というくくりにあっただけで、それに甘んじれば「京都学生演劇祭」に出れるから、学生劇団と呼ばれてみたが、「喀血劇場って実際のとこ学生劇団?」って言われたら「ちっげーよ!単なる俺のユニットだよ!」と答えただろう。(実行委員の前ではそんなこと言わない。)

だけども、フリーだった頃も、学生劇団ではない劇団に所属していた頃も、辞めたあとも、たくさんの学生劇団の人たちや元・学生劇団の人たちと一緒にやって、いろいろ見てきたので、それなりに語ることはできるはずだ。

 

京都で学生で芝居してる人たちで、今後続けていきたいと思ってる人にくれぐれも言いたいのは、無茶するなということで。無茶したところで、結構な人数が24歳ぐらいで脱落するし、その後続けていた人も35歳ぐらいでまた結構な人が脱落する。だから、続けたいと思うなら、芝居で食べようと思わないこと。プロなんか目指すな。芝居できる仕事を探すこと。出世したりしても続けられるような仕事を見つけておくこと。子どもができても続けられる環境を作ること。多分それが一番大事。子どもに関しては、知ったこっちゃねえですけど、多分、大事。

 

さっそくプロなんか目指すな、と書いたわけだが、プロになりたければ東京に行くしかないでしょ。京都市の人口は150万人ですよ。そんなところで演劇のプロが、公演うつだけで成立するわけねえじゃん。講師をやったりWSをやったりしないと絶対に成り立たない。(しかも、相当うまくやらないと無理。そんで、テレビの仕事なんてこねえよ!)東京のこと、だいっきらいなんで、本当は東京に行くしかねえでしょなんて言いたくないけど、社会における小劇場の立ち位置として、それは現時点であまりにも自明なわけ。基本的に週末しか公演はないし、芝居観に行くよりかは嵐とかが出てる映画をやっぱ見るわけ。娯楽として芝居がより身近にある世界なら(そしてそれが私の理想なわけだが)いざしらず、現時点では確実に無理だわな。普通に考えれば京都小劇場界と新国立劇場・テレビ・映画の世界なんてつながっていない。もしもそこを目指すなら、プロダクションに所属するか、単身オーディションに突っ込むか、ぐらいしか道はないんじゃないか。

 

というわけでプロになりたい人にはこれ以降、読んでもらう必要はない。

あとは芝居が好きだから続けられたらいいなと思ってる人向けである。

 

僕はめったに学生演劇を観に行かないし、今年の学生演劇祭はほとんど観なかったし、だから判断材料になるのは去年の学生演劇祭なんだけど、結構な数の劇団がどうでもいい芝居だった。もともと、別に何かを期待していたわけではないので、それは問題ない。僕が観て、面白いなと思うのは、そういった人たちの、少なくとも数年後の姿だろう。そう、数年後なのだよ。

僕と同世代の京都の小劇場劇団といえば、売れっ子(やっかみ)の「ピンク地底人」やお騒がせ劇団「笑の内閣」や「夕暮れ社弱男ユニット」「劇団ZTON」「イッパイアンテナ」「劇団ソノノチ」「京都ロマンポップ」あたりだと思うんだけど、そして、そこら辺の人たちが、学生からすると「すげー人」みたいに見えるかもしれないけど、きっとそんなことはなくて、学生と違うとこがあるとすれば、学生じゃなくなってからも続けているっていう、ただそれだけなわけです。

はっきりいって、僕らクラスの芝居でいうなら要求されるものなんてたかが知れてるので、続けてれば、それなりになります。少なくとも、僕らクラスの演劇やってる人の中に、飛び抜けた才覚なんて持ってる人はいない。そういうどんぐりの背比べというか、だんご3兄弟というか、可もなく不可もなく集団です、私たち。そんな私たちと学生との違いといえば、生きてる時間の長さぐらいです。つまり、生きて続けてりゃ、数年後、今の学生たちは私たちぐらいには当然なります。当たり前です。

僕が2回生や3回生の頃に書いてた芝居なんてそりゃひどいもんで、一生明るみに出したくありません。年をとるっちゅうのはそういうことで、まっすぐにはよくなりはしないけど、少なくとも螺旋状ぐらいにはよくなっていくもんだと思います。よくなるという言葉に語弊があるなら、学生だけではなくて、より上の年代にも受容され得るという表現がいいかな。

だからこそ、こんなおせっかいなことを書いてるわけです。私が10年過ごした京都で、芝居が好きで続けている人が少なくなるとなんとなく嫌だから。

僕は、現時点の京都の学生演劇やってる人たちに何の期待もしてません。続けた人にだけ期待します。

 

と、ここで京都学生演劇祭についてちょっと書く。

京都学生演劇祭が「僕らはこんなんですよ」という断面図を見せたいのなら、今のまま存続していくことに価値はあると思う。もしそれ以上の、「京都から何らかのムーブメントを起こしたい」「スターを発掘したい」と思っているなら、現状のままではどん詰まりの未来しか感じない。演劇祭実行委の狙いが後者ならば、消極的選択肢で芝居を選んだ、学生の間だけ芝居ができればいい人間にとっては、いい迷惑なのではないか。自分たちの中で完結していればそれでよかったものが、(言い方は悪いが)表に引きずり出されて他と比較される。楽園にいたい人は楽園にいさせてあげればいいのだ。玉石混交のまま十何団体も見せるのは、観客にとってもなかなかの負担だ。それに繰り返しになるが、果たして京都の規模で、スターやら天才なんかが見付かるのか。松田正隆土田英生や上田誠が10年に1人はいるかもしれない。でもいない。たぶんいないと思う。いないんじゃないかな。だから、演劇祭の方向性いかんによっては、上演する側だけでなく、今後の実行委に重い十字架を背負わせることになるのではないかと危惧している。(いや、実行委がインカレイベントを作りたい人だけなら別にいいんだけど。)

 

もう一つだけ危惧していること。

京都の小劇場界には今、ヨーロッパ企画が君臨している。本人らにその自覚がなくても君臨している。いや、あると思うけど。

ヨーロッパ企画と絡めたら「あがり」だなんて絶対に思ってはいけない。恐らくだけど、ヨーロッパ企画は小劇場とほかの世界をつなぐために尽力してる。それは第一義的にはヨーロッパ企画のためだし、同時に小劇場に身をおいてる人のためにもなることだろう。

でも、ほんとにおせっかいだと思うけど、ヨーロッパ企画とつながりを持つことがゴールではないし、ヨーロッパ企画と楽しい時間を過ごすだけじゃ、きっとそのあとも続けていく力にはなりはしない。

芝居を続けて行きたいなら、したたかにならなきゃねって話です。

したたかすぎても鼻につくけど。

 

というわけでプロになりたいなら学生劇団なんか辞めちまえ、引退後、同期たちとユニット組んだりするな。

続けていきたいなら、ただただ続けろ。

そういうお話でした。

 

いやあ。とりあえず読み返してみたけど、私の視野も狭いですね。

だけど2年間、特に3月には大変なご迷惑をかけた学生演劇祭に対して、それなりの責任を果たしておきたかったので。

(結局、私、何のかんの言ったあげく、大反省会、開かなかったしね!)

 

願わくば、この貧弱な論を基に、いろんな人がいろいろ話さんことを。

そしたらちょっとは面白いよね。

 

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